Vol.79あたり・・・。

よく「歳をとると、涙もろくなる」といわれる。
いろいろと人生経験が深まって、相手の立場がわかっちゃったりして、涙が出やすくなるのだと思っていた、ら、そうではないらしい。感情を統率する脳の機能の衰え、なんだそうな。先日の叔母の葬儀でも、過剰演出にフテたつもりでいたのに、ちょっとした隙に涙が止まらなくなった場面があった。
そういえばステージ上でも、以前に比べると、思いもよらないことばが出たり、決められたことだけでいいのに余計なことをしたりすることが多くなったのが、気になってはいたが。自分を律する能力が弱くなってきたかな、と思っていた矢先だけに、納得・・・。

今週は仕事だけでした。しかも打ち合わせの嵐。
1対1の打ち合わせなどもありまして、ちょっとツボをつつかれて上司の悪口全開になり、その点ではこのヒトとは気が合っちゃった、なんてことも確認できたりして、変わりそうもない上司と将来展望には悲観的になりつつも、ややガス抜き満足。
それだけでもなんなので、滅多に顔を出さなくなっていた合唱祭なるものへ、知人からチケットをもらっていたので、久しぶりに顔を出してみたのだった、於・五反田ゆうぽーと。
一体化した生音を聞くには、実にいいホールだ。広〜いステージに20人程度しかいない合唱団の声も、ちゃんと一階の後ろまで聞かせてくれる。
この環境で、ミサ曲だの、宗教色の強い横文字の曲は実に聞いていてここちいい。音の鳴りだけでハッと空気が変わる瞬間が、何度もある。一方、日本語の曲は、同じ合唱団が歌っていても、どういうわけか不明瞭に聞こえてしまう。発音も和音も。
つまり日本語が、この演奏形態にふさわしいのだろうか、ということを個人的には考えさせられた。すでに美的価値観が「ベルカント」に固定されているらしいので、どの合唱団の日本語曲も同じに聞こえるし、どこか演奏に「より、キレイに」という引いた姿勢があるので、粗もことばも客席まで届いてこない演奏が多い(粗が届いても、仕方ないか)。
でもね、その「粗」が、結果的にその合唱団の色を感じさせてくれたりもするんだよな。
逆に全然、隙のない演奏をする合唱を聞かされると、ただ眠くなる。元々がバーバーショップほどには、エンターテインメントではないし。
もひとつ、こんなふうに気持ちが動いたことに自分でもかなりびっくりしたのだが、指揮者の存在。
アタマでは統率者の必要性は理解しているんだけど。なにせこの大人数なんだから。でも、ステージの中央に、なぜかひとりだけ客席に背を向けて立っている。4拍子なら4拍全部、律儀に振る必要があるのだろうか。しかも教科書どおりに。アレを見た途端に、音に集中できなくなってしまった、何か邪魔くさい。
自分も学生時代は、何の疑問もなくやっていたことだし、けちをつける気もさらさらないのだけど、何か随分遠くへ来てしまったなぁ、と我とわが身を省みたりして(そういえば会場では顔見知りに、誰一人として会わなかった。アタリマエか)。
かつては夢中になっていたんだよな、俺も。同じパートでも、歌っている人がたくさんいるんだもの、いろんな意味で揃えなければ聞かせられる演奏にならない。その過程は楽しいのだが、段々一方的に揃えられている感じが強くなってきて、「本番くらい、主旋律くらい自由に歌わせろ」という思いの方が、いつしか強くなってしまった・・・。

ア・カペラの一番の魅力は、と聞かれると「機動力」だと答えることが多い。4〜5人も揃えば、その場で歌えるから。でも誰かが思いもかけないフレーズで歌いかけてきたときに、リアルに対応できる身軽さでも、あるんだよね(もちろん自分がふっかける側に回る場合もあるし)。そのやり取りが、より直接的なところが楽しいんだ、と改めて自分のやりたい音楽について考えさせられた。

もちろん、そんなことを課題にしながら、試行錯誤中だったり、とっくに解決しちゃったりしている合唱団も、たくさんあるんだけどサ。