今週のできごと

以前、かの地で大きな戦争が始まってしまったとき、「普段なら演奏会に行くことも歌っていることも、空気や水のように当たり前だった。今、こういうことができる自分たちは『平和』でよかったと思う」といったようなことを、合唱部の先輩指揮者が演奏会のプログラムに書いていた。
そんなことを、強烈に思い出した。
僕たちは、大切なことをすっかり忘れていた。
コンビニに買いきれないほどの商品が並んでいて好き嫌いをいっていられるのも、
ツイッターを読んだだけで、その人のことを全て知っているように思ってしまうことも、
災害地の映像を見て、さも現地に自ら足を運んだような気になることも・・・。
モノがあって、ヒトがいて、そこに日常の暮らしが維持されているということの大切さ。
それを支えてくれている人たちの、カゲの努力。
それを感じる想像力が、すっかり足りなくなっているんだ。

なのに今週の俺ときたら、
とにかく何をしていても、何をしようと思っても一旦手が止まる。
どんなに単純な仕事でも、後回しにしてしまう。何をしているかというと、職場でぼーっとしているか、ニュース映像を(ネットで)見ている。今の自分の仕事に意味を見出せない、というと大げさだが、仕事柄も次々に現地から入ってくる情報の前にただただ呆然としたまま一週間が過ぎてしまった。
そんな職場では、週末にかけて現地入りした上司と、他県の「兵站基地」に行ったっきり交通事情がアレで帰ってこられなくなっている同僚が留守で、いたって静か。こんなときだから電話もあまり鳴らない。隣接部署の上司とアルバイトのオバちゃんだけが、のべつまくなし話している。
緊急地震速報だけは聞こえるようにテレビをつけたままにしている音声に対して、いちいち何か感想をいっているようだが、あまり何か役に立つ経験や情報ではなさそう。それがさっきから俺の神経を逆なでしっぱなし・・・不安になるようなことばかりいって、どうする気なんだよ。
と腹を立ててしまう俺は、現実から目をそむけているのかも知れないんだけど。
ニュース画面の横に表示されるツイッターは、はっきりいって「バカばっかり」で、ヒステリックに、すごい勢いで画面を流れては消えていく。何人かの動向を知ろうと読んだ知り合いのツイッターでさえ、キレイゴトを熱く語って自己陶酔しているように見えてしまい、うんざりしてしまう。
何より、無意識ながらこんな風に「上から目線」になっている、自分自身が一番嫌になる。
一方、わずかに知的障害をもつ同僚は、そんな彼自身に敏感に気付いていて、いつも以上に落ち着きがない、とちゃんと言語化していた。
お互い、何の解決にもならないが。
こうして他人に対して口にするだけで、多少は気分が軽くなるかもしれない。
誰でも不安だし、俺としても経験したことがないことだらけなのだ。
盲目に駆け出す前に、ちょっと考えて、いつもよりゆっくり動こう。恐らく突発する余震に対しても、それでいい、はず。
ただ、周りの人たちの無神経な発言を受け流したり、行動に抗おうとすると、結構心的エネルギーが必要なようで、かなり疲れるのも事実だ。自分の中にまだ確固たる根拠がないせいもあって、発言や行動のいちいちに、理性を総動員して自らを律しなければいけないストレスがかかる。
誰買い占めるともなく、流通が滞っているせいか、コンビニやスーパーでさえ、昼食にことかくようになっている。ガソリンスタンドでは車の行列ができているという・・・一緒になって走り回れば、当座何かやっている(「参加」している)という充実感は、得られるのだろうか。だが俺は、自動車を持っていなかったりする。どうも俺には、集団ヒステリーのようにも見えるのだが。
俺がそんなに楽天的な人間なのかというとそうではなく、どちらかというと刹那主義なだけだが。