思い出の中の街

あの怒涛の大異動(転居)から、たかだか1年ちょっと。落ち着いて住んでみれば、思った以上に不自由の少ない街暮らし。
とりたてて不満もないまま、むしろこの街には愛着すら感じ始めている。
ただ、近隣には元々知り合いのひとりもおらず知人も増えず、やはり微妙に「文化」の違いのせいか(大袈裟)。
とりわけ近所のスーパーと、品揃えで意見が合わない。
一例を挙げると、納豆は小粒か引き割りで、一人暮らしサイズの豆腐はなぜか絹ごしばかり。
俺は、納豆は大粒が好きだ。木綿豆腐を食わせろっ! といいたい。

せっかく学生時代以来念願のひとり暮らしなのだが、学生時代と違うことには、誰も不意に俺を訪ねて来たりはしないし、俺がここにひとりで暮らしていることすら、この界隈で知る人はない。
それはそれで、元来人間嫌いな俺にとっては、気ままで暮らしやすくもあるんだが、あっという間にゴミ屋敷・・・とまではいかないまでも、まぁ片付けというものは意識しなくなった。


その一方で、自身は意外にも世間体を気にする人間だったことに気づかされた。
平日の昼間、部屋で生活音をたてることに神経を遣うようになっている。
先週くらいまでは「お盆休み」、といういいわけができたんだが。
今頃は出勤してれば朝礼の時間だったな、そろそろ始業か、という記憶は、さすがに遥かかなた。
両隣部屋の学生には、平日の昼間に部屋にいるようになったのがバレバレだろうな。
その学生たちは相変わらず、というかまだ夏休み中だからか、今まで以上に生活時間帯が不規則で。両隣だけでなく、学生というのはそういうものらしく、もしかすると今夜この建物の中には俺だけしかいないのかも知れない、と思える日が数日。
辛うじてテレビ番組だけで確認できているものの、いよいよ曜日感覚が麻痺してきてたりもする。
夜になると得体の知れない不安に襲われて、たいそう寝つきが悪い。


結局、俺が去年この街に辿り着いたときにおぼろげながらも描いていた「未来」は、たったの1年で、みごとに何ひとつ残らなかった。
月並みだが、今頃になってようやく、失ったものの大きさに気づく始末だ。
幸せな思いに浮ついていると、すぐ先でいつか不幸になることばかり考えてしまうのだが、今にしてみれば「やっぱり」、ってところか。はしゃいでいたつもりもなかったんだが、どこか浮き足立っていたのかも知れない。
全てを一度に手に入れようとしすぎたか。それほど器用でもないのは、本人が一番身にしみている筈なのにな。
それなりの勇気も、必要だったんだけれど。
今は何をやってても楽しくないし、何を見ても、目の前に靄が一枚かかっている感じ。


鳴ることのない玄関のチャイム・・・まぁ鳴ったところでアテがないから、今だったら100%居留守を決め込むが。
携帯電話にはもう半年近く、着信記録がない。
直近の着信は、2月に水漏れの修理を頼んだ大家から4月に返事があったものだが、さすがに待てなかったので、3月に道具揃えて自分で直しちゃいました。
郵便ポストに届くのは、公共料金の請求書だけ。
目に映るこの部屋はひとりだと広すぎて、元来貧乏症ということもあり半分ほどのスペースを持て余している。都内だと、この家賃でこの住環境は望むべくもないが。
返しそこなったままの食器、置き去りの調味料、調理器具は最近、すっかり出番が減った。
最寄駅までの一本道は、かつて何度となく一緒に歩いた。
あの頃のふたりの足跡もぬくもりも、残っているように思えたこともあったけれど、さすがにこの猛暑と駅に向かう学生の群れに、すっかり「上書き」されて、今はどこにもみつからない。
朝起きてから、ひとり床につくまでに、彼女と付き合い始めてから身についた習慣がいつの間にか出たりして、自分でもはっとする。
この街では未だに、何をやってもトラウマいじり。
この数ヶ月、無理やりにも忘れようとしてきたけれど、成功していない。
病を抱えながら生きていくことの大変さを、楽観的にしか捉えていなかった俺は、さぞかし頼りなく見えたことだろう。
自身が毎日出勤することだけで手一杯で、気持ちに余裕がもてなかったこの1年。
鋭い彼女のことだ、もしかすると俺が早晩こうなることすら、見透かされていたかも知れない。
まぁ少し、自棄になっているのかもね。
ともかくも、今となっては俺のこの状況で、よりを戻すとか戻さないとか、それ以前に何かいう資格すらない。
駅の向こうに上ってきた黄色い半月、今夜はなかなか昇りきらない。
いつか必ず、ここも出て行く日が来るのかな。
そう思うだけで、なおさらに気分が沈む。
どこまで根を張れるだろうか、この場所に。


重なれば重なるもんで、何故だかこんなときに限って立て続けに歌とドラムで複数のオファーをいただいた。
せめて数ヶ月前だったらなぁ。在職中にはその予兆すらなかったのに。
それも退職直後ならまだしも、時間が有り余っていた時期も、あったわけだが。
って、俺の都合だけで世の中回ってるわけじゃないもんね。
それにつけても俺にとって、あまりに魅力的なお話ばかりだったもんで、申し訳ない。やや取り乱しております。あ〜あ。