「終戦70周年 軍郷から学都へ〜郷愁! 昭和20年代の大久保」展

家の近所にある市民プラザ大久保では、数回にわたってこの街の歴史に関する展示を行なっている。
まだまだ新米住人の俺としては、毎回興味深く足を運ばせてもらっており、俺の記憶では前回は、『坂の上の雲』(司馬遼太郎)で取り上げられた明治時代の大久保を紹介する展示だった。主人公のひとり、「日本騎兵の父」秋山好古が率いたという、これら連隊の総司令部は、この市民プラザのある一画で、駅側に広がる児童公園には、今も立派なレンガの門扉が残されている。改めてよく見るとレンガ間の漆喰は、近年復元された大正3年当時の東京駅と同じ、断面が半円形の「覆輪目地」工法になっている。

今回はぐっと時代が近くなって、俺にも暮らしがイメージできる年代の大久保、今暮らしている従来からの住人の方たちの、直接のルーツと繋がる「歴史」だ。

例えばあの大戦後、軍が解体されるのに伴い、13連隊跡地は東邦大学、14連隊は日本大学となって今に至っている。
「あずま子ども館」の裏手は今も空き地のままになっているが、今回展示されていた当時の写真によると終戦直後は引き揚げ者住宅だったそうだ。引き揚げ者住宅での暮らしについては、祖母や母からわずかだが聞いたことがある。
ほかにも昭和20〜30年代当時の地図が展示されており、それによると今、俺が住んでいるアパートが建っているあたり、所有者の姓が変わっておらず、大家さん一家の出自はどうやら、軍御用達の「精肉店」だったと読み取れる。

以前何の気なしに散歩した際、偶然に見つけた三山「(第16連隊裏門)歩哨所」跡。その現役時代の写真を見ることができた。しばらくあちら方向に足を運ばないでいたら、キャプションにもあるように、昨2014年10月に、あえなく取り壊されてしまったらしく、ちょっとショックを受ける。俺が偶然発見した時は、この辺りでは時々見かける劣化のなくしっかりした、しかし年代を感じさせるコンクリートの造りに「何やら歴史的な臭いがするぞ」とは思っていたが、歩哨所だったと知ったのは少し経ってからだった。
こういう誰から教わるのでもない「実体験」のひとつひとつが、この街を自分の居場所としていくための楽しい「手順」であり、習志野のこの界隈では、このように何の予備知識もなく散歩していても、結構いろんな「文化財」が発見できたりする。第二次大戦中も、これといった大きな空襲に見舞われなかったことが幸いしているらしい。
そんな魅力や楽しみがまだまだ残っている街だっただけに、そのひとつが何の議論もなく壊されてしまったのは、とても残念だ。
時代は下って昭和39年、東京オリンピックの年。
一風変わった、こんな「事件」もあったらしい。

昭和39(1964)年8月24日の夕方 大久保商店街に立ち入り禁止の縄が張られた。

当時、私は駅南側で食堂を始めたばかり、表に様子を見に行けない。
まだ、市民会館ができる前で、最初は何事かとわからなかったが、
●●旅館の宿泊客がコレラに感染亡くなったと!
それから、新聞記者が次々に聞きに来る。
翌日、東京の伯父から、「お前の名が、新聞に出ている」と電話があり
「これからどうなるか不安です」と。
当時24歳だったのに42歳になっている(笑)。
翌日から、店は2週間くらい、大久保の飲食店は営業停止。
まだ個人スーパーの時代、どこのスーパーも食品店も缶詰の棚が空になった。
住民の検便のため、大久保小学校にテント数張が張られ、直接採便です。
テントに入り、お尻を出して四つん這いに肛門に採便のガラス棒が差し込まれた。
八幡神社でワクチンの接種が始まった。私は普通の注射器で、腕に注射。
(写真のは)針のない注射器で、皮膚に圧力でワクチンを浸透注入させるもの。
ヘリコプター2機が中央公園のタコ遊具あたりを基地にして、習志野市全土に消毒粉末を散布した。特に大久保と京成車庫は念入りで、一面雪が降ったように! 真夏の雪景色でした。

すぐ(東京)オリンピックを控え9月上旬以降はほとんどのマスコミから、このコレラ事件報道は消えた!

現在も、(東京)オリンピックを控え自衛権問題*1などで国民の目はそらされ、最悪の原発処理問題の情報は少なくなっているように思うのは年寄りの、「取り越し苦労」かな?
(固有名詞は一部伏字に、またカナ表記等一部改変しました)


地元の人たちから直接集められた、こらら貴重な証言や史料とともに、当時の暮らしに使われた道具たちも展示されていた。蓄音機、手回しの電話機、衣装桑折、足ふみミシン…個人的な思い出としては、アンカと手水器に、久しぶりにお目にかかったのが嬉しかった。

俺にとってはどちらも子どもの頃、練馬の豊島園裏手にあった都営住宅に住む祖父母宅で、実際に使ったことがあるものだった。

以下、写真の展示アンカに添えられていた説明文より。

「豆炭あんか」知ってる?

昭和34年、品川燃料という練炭などの会社が『品川あんか』を発売
当時の『豆炭あんか』の値段は480円ほど、豆炭は一個1円。
「豆炭1個で24時間保温」のキャッチフレーズで、年間300万個以上も生産される大ヒット商品。まだアルミサッシなどない、隙間風の住まい。火鉢や練炭火鉢、炬燵の生活、豆炭は火鉢でも使われていた。
ストーブやエアコンなどとても一般家庭には…。
ところが
福島第一原子力発電所事故の停電で、戦後を思い出したか?
「湯たんぽ」「豆炭あんか」が復活。
現在、アマゾンでも販売、3,500円前後、豆炭は4円くらいらしい。

*1:安保法制問題のこと