「ひろしま」から70年

今年は「ひろしま」も「ながさき」も、仕事休みの日だったので、それぞれの時間までには朝食を終え、身支度を整えて黙祷に参加することができた。
折しも戦後、70年。
そんなこともあってか、政治のニュースがこのところ異常にきな臭いせいか、今年ほどかつての戦争を身近なものに感じた夏はない。
テレビのニュースでは、両日と時間を「知っている」、として正しく答えられた人は30%に満たなかった、との報道もあった。

8月8日夜には、Nスペ「特攻〜なぜ拡大したのか〜」を観た。
今もってこの非現実的で、現実乖離の様はもはや滑稽でさえもあった「攻撃作戦」の立案と実行の過程については、とても興味があったところだったが。
戦争を始めてしまったときには、誰がその終末期にこんな馬鹿げたことを「作戦」として…既定の飛行訓練時間も修えていない若者たちを、戦闘機でもなく練習機に乗せたまま、「敵」軍艦に体当たり、などという事態に陥るなどと、想定していただろう。
広島、長崎にも、本土の2箇所に原子爆弾が落とされる、などという惨禍を、誰が想定していただろう。
もっというと、この戦闘の終わらせ方を、自国がこの戦争で「負ける」などということを、少しでも想定していたのだろうか。
俺のような素人目にも当たり前のことだが、争い事は、始めることより手を引くことの方が、とても困難だ。
対個人の争いごとですらそうなので、国家という「最大単位」がこの方向に動くときは、「相手」があることもあり、一寸先だとしてもどんなことになっているか、想像どおりにはいかないと考えた方がいい。
実際、今現在も世界中で起こっている紛争・戦争は、第二次世界大戦「後」ではなく、先の大戦が継続している、という説を唱える学者もいるという。

御前会議の場では、数としては少なくなかったはずの、後世から見ればまだ「正常な現状分析・判断力」を持っていた終戦交渉派が、戦争強硬派に意見できなくなっていく様子がドラマを交えて描かれていた。
後世のインタビュー録音では、直接天皇と情報のやり取りができるほど上層部の軍関係者でも、主戦派が支配する場の空気に圧され、「もはやそれ(終戦交渉)は私の『仕事』ではない、と思うようになっていた」と証言している。
このことば、俺はつい最近も東京オリンピックのメイン会場建設問題で聞いたような気がしたが。

翻って、現代。
一旦世界のどこかで戦闘が始まれば、「いやいや、これ『総合的な判断』の上で、集団的自衛権を行使しただから」(あるいは逆に、「今回は行使しないから」であっても)などという言い訳が、銃を突きつけあって対峙している戦場で通じるわけもなく。
戦闘の場に近寄らないことは、別に恥じることではない。
日本という国にはこれまでも、「平和憲法」に裏付けされたこの国独自の役割を果たしてきたし、これからだって、直接争いに参加しなくても、まだまだできることはたくさんあるはずだ。
戦争を「始めちゃわない」智恵こそが重要だ。
そのために。
なぜあれだけ大きな戦争を始めなければならなかったのか、なぜあのような結末になってしまったのか、その責任はどこに帰するものなのか…。
憲法に新たな解釈を加えるより前に、史実を積み上げて精査し、ちゃんとした「総括」をすべきだろう。少なくとも小・中学校の授業でも、ちゃんと教えられる内容として。

俺はだから、「将来の戦争」(への備え)を語る人を見ると、人間の争いは決して避けて通れないものだという「現実」主義者に見える、というよりは、単に「戦争をしたがっている」ようにしか見えないのだった。俺の方が、国際社会の現状について不勉強なだけなのかも知れないが。
先に国家間の争いが起こることを前提として、それ備えようとするのは、戦争の経験を踏まえた現代的な外交手腕だけでは、ハナから「紛争解決に自信がない」、といっているようにも映る。
それを国際社会の場に委ね、自らは軍力を保持しないところが「平和憲法」なのではなかっただろうか。

先の無責任発言もそうだが。
沖縄の米軍基地移設問題にしても、原発の再稼動と補償問題にしても、年金情報の漏洩にしても、東京オリンピックの問題にしても…。特攻へ向かっていく一連の経過と、妙に重なってしまって仕方がなかった。結局、日本人の気質に根ざしたもの、なのかも知れない。
いわく「絶対に安全だから(神国が負けるはずはないから、または環境破壊はないから)」、で市井の反対意見に耳を傾けずに「邁進」した結果、指導者は世間常識から乖離していき、何か当事者には悲壮感すら漂うことを良しとする風潮まであって、あっという間に「蛸壺」化。そうなってすら責任の所在はあいまいで、関係者全員から反省の弁はあるものの、(再発防止のための)総括がない…。
TBSの「新・情報7days ニュースキャスター」(8/8)ではビートたけしさんが、夏の高校野球、事前にあれだけ高校球児に対して、熱中症が心配、だの連投によりエースが肘を痛めることについてはどうする、だのいっていた割に、結局何の改善策もないまま今年も無邪気に盛り上がっている様を、「日本人に脈々と受け継がれている玉砕精神(への美意識)、かも」と表していた。
そんなことばかりが「大和魂」と曲解されて、残されてしまったのかも知れない。