「ながさき」から70年

それにつけてももっとちゃんと、学生時代に勉強しておきたかったなぁ。
長崎には修学旅行と、プライベートでは卒業旅行で行ったことがあるのだが、広島はまだ一度も訪れたことがない。
なぜ、広島と長崎だったのか。
なぜ、8月の暑い最中だったのか。
なぜ、使用しなければならなかったのか…。
そんな俺の内にあるたくさんの「なぜ?」のかなりの部分に対しては、ドキュメンタリー「原爆投下は実験だった」(ANN)が答えてくれた。

なぜ、広島と長崎だったのか

当時のアメリカ大統領はトルーマン。あの大戦下、ルーズベルトの急死により副大統領からいわば横滑りで大統領になった人で、どうやら当時からアメリカ国内でも、「外交は不得手では」との評価があった人物らしい。
実はアメリカでも、事前通告なしの原爆投下にあたっては、その開発に実際にあたった科学者を中心に、反対の署名運動があったという。
しかし、原爆投下への流れは止められなかった…。

トルーマン大統領は原爆投下直後の記者会見で「軍事施設に限定して使用」した、としていた。しかし投下目標選定の過程を追うと、軍事拠点であったほかに、捕虜収容所がないこと*1のほか、なんと民間住宅地がある程度残っている地域、というのが条件だったのだという。
このため、既に幾度もの空襲を受けていた東京を始めとしたいくつかの「重要拠点」が、投下目標の候補から外れた。
原爆を投下したB29 「エノラゲイ」、「ボックスカー」の機上には科学者も同乗しており、その破壊力についての測定を行っていた。今、我々が繰り返し放映で目にしているいわゆる「きのこ雲」の動画は、同乗していた科学者が撮影したものだ。

最終的な原爆投下の決断はトルーマン大統領が行ったが、戦勝国アメリカとはいえ、その背後に蠢いていた開発に投資した財界・業界、関係者たちの「結果」を求める大きな流れはもはや、止められなかった。

なぜ、8月の暑い最中だったのか

当時、旧ソ連は日本と中立条約を結んでいたが、いわゆる東西冷戦、米ソの「戦後」利権争いは始まっており、日本の敗戦処理を話し合うポツダム会談の日程調整にあたっては、トルーマンが「7月15日以降」としていたのに対し、イギリス首相・チャーチルは「それでは遅すぎる」と再調整を打診していた。
この時点でトルーマンの元には、7月下旬には原爆実験が成功する見込みであることが伝えられていたため、トルーマンは結局、この再調整に応じることはなかった。
そして7月16日、原爆実験は成功する。
大国アメリカは、ソ連の対日参戦時期を探りつつ、原爆の開発で先手を取ることで、戦後処理を有利に進めたかったのだ。
諜報情報によるとソ連が対日参戦準備を整えるのは8月8日と見通されていた。
7月26日、連合国の間で対日ポツダム宣言が採択された。ここに至る過程でアメリカは、戦後日本の政治体制について「立憲君主制を約束する」の文言削除にこだわり、会談は幾度も紛糾したという。
降伏条件に立憲君主制を保障してしまうと、日本がすぐにでも降伏してくる可能性があり、その後に「予定されている」日本への原爆投下ができない。
また、ポツダム宣言からは同席していたスターリンのサインが「削除」されており、日本にソ連が対日参戦する素振りを気取られて日本の降伏が早まらないためだった。
原爆投下にあたっての事前通告を行わなかった理由も、このためだったのだ。
その思惑通り、日本はポツダム宣言を無視する。
8月6日8:15、広島に投下されたのはウラン型原爆。
遅まきながらアメリカの動きを察知したソ連は、ポツダム会談の裏で8月15日としていた対日参戦を8月9日午前0時、満州への侵攻の形で実行。
同日11:02、長崎に投下された原爆は広島よりも「効果的」なプルトニウム型だったが、投下場所が山の手だったために、その戦果は「失敗」だったという。
こうして世界初の原爆投下という人体実験は行われてしまった…。

放送では、ルーズベルトのお孫さんが「禎子」の物語に感銘を受けたことがきっかけで、あのきのこ雲の下であの日何があったのかを伝えていく活動を通じて、日米の架け橋となって奔走されているという話で、締めくくられた。

繰り返し、繰り返し。
人間はすぐ忘れてしまう。

千葉では東京と同じ大規模空襲があったというが、明治時代に日露戦争で活躍した、日本最初の騎馬隊が所属していた習志野原、その後は陸軍の重要拠点となっていた習志野船橋界隈は、これといった大きな空襲には遭わなかったと聞いている。
もしかしたらあの日、習志野原で、と考えられなくもない。
70年後の今日、千葉では夏らしい青空が広がっていた。

*1:長崎には当時、大規模な捕虜収容所があったが、実は小倉が当日の第一投下目標だった。天候悪化のため、急遽現場判断で第二目標の長崎に変更された。