十三夜

直近の満月は9月27日で、もちろん「おひとり様お月見」を敢行したものだが、実は十三夜の月と併せて「お月見」をするのが、江戸時代の由緒正しい「お月見作法」というものだったらしい、と盛んにテレビで複数の気象予報士がいっている。完全なマル(満月)ではないところに「粋」を感じていた、というものらしい。


誕生日に無事、彼から告白されたという元同僚から、いちいちメールで報告があって、今夜はカレシの家にいるんだそうだ…って、俺の知ったことかっ!
わざわざ返信するまでもなかったのだが、こちらの意志をいちいちことばにしないと伝わらないタイプなので、
「俺にメールしている場合かっ(笑)」
とだけ、返しておく。
手放しで「よかったね〜、おめでとう」のような反応を期待されていたのかも知れないが、正直このトシにもなると、エロい想像しかできん。数日前の誕生日にはカレシが部屋に来ていたというので、「このシチュ(誕生日)で告られなかったら、押し倒してしまえ」と焚きつけたのは、俺だったが…。


千葉に越してきてから、実は小さな野望があって、それは夜の誰もいない公園を散歩したい、というものだった。ひと駅先の、この辺りではかなり大きな公園は俺の好きな場所のひとつ。仕事が休みで天気のいい昼間にはよく、お気に入りの本を持って行く。その公園の、夜の姿をひと目見てみたい、というものだ。

今夜この同じ夜空の下、E―思いをしているであろう人たちへの憤り(?)をパワーに、お月見を兼ねて実行することにした。
急に体力を使わない生活になったせいか、どうもこのところ、一度現場でついてしまった体力を持て余しているのもあるようで…電車でひと駅という距離も、歩くには丁度いい運動量だ。
と前置きが長くなってしまったが、わざわざ行ってみたからといって、とりたてて何があるわけでもない。
東京の、比較的繁華街や駅から近い、同規模の公園だと運がよければ高校生が乳繰り合ってるのが見られたりするわけだが、もちろんそんなこともない、千葉の街外れ。
秋の虫の音と、ときおり蛙の鳴き声。実家暮らしだったら気まぐれでこんな時間に外出することはかなうわけもなく、本当にひとり暮らしをしているんだな、という自信と不安の入り混じった実感を、改めて確認できた気がした。まだまだ「誰の助けも借りずに」、とまではいかないが。ひと気が全くない夜の公園で、暗い静寂に向けて自分の中から「何か」が徐々に染み出していくのがわかった。昼間に街で溜め込んだ「喧騒」、みたいなものに思えた。

後日、偶然に見たテレビ番組で又吉直樹さんが、お笑い芸人として売れなかった頃、泣きたくなるとよく公園に行った、という話をしていて、「オトナになると、世間の目が気になって街中でおいそれと泣くわけにもいかないが、公園に行くとそんな自らの様々な感情が自然と『染み出してくる』感じがして、ラクになる」と表現していて、さすが芥川賞作家だな、と思った。俺自身は今まで単に、植物の緑が恋しくて足を運ぶもの、としか自覚していなかったが、確かに街中における公園って、俺にとってもそういうものだったかも知れない。泣かないまでも、俺の場合はストレスが溜ってくると、なんとなく足が向いてしまっている。
近所にこういう、お気に入りの場所があるって、思った以上に大事なことらしい。