イジメは、なくなるもの?

先日の岩手に続き、名古屋でもイジメを苦にした中学生が列車に飛び込み自殺したと報じられた。
国内外ではその後も様々にショッキングなニュースが続いているので、このニュースもそんな中に埋もれてあっという間に忘れ去られてしまうだろうけれど。
ただこのところ、この日記の更新が滞ってしまったのも、俺にこのことについて記しておきたいという気持ちがありながら、どうまとめていいのかわからず、しかしそんな思いを忘れずに抱えたまま今日に至ったのも、俺自身がこの報に触れてからのショックが思いのほか大きかった証だろうということで、とにかく文章にしてみることにした。
個人の日記で触れるには重すぎるテーマでもあり、俺の拙い文章力でどれほどのことが伝わるかはわからない。予め断っておくと、イジメの構造や詳細、解決方法などについて書ける立場にない。いつも通り、俺自身のためにだけ書いていると思ってほしい。(11月29日・記)

対象は、個人。

前の会社をクビになったことはもちろんショックではあったが、今だからいうと少しほっとしていたのも正直なところだった。
仲良くしてもらった同僚が、恐らく数ヶ月くらい前から職場イジメのようなことに遭っていたのだ。
そして彼も、俺と同時機に「人員整理」の憂き目にあった。
ほっとした、というのは俺自身が今後、そんな状況を目にしなくて済む、ということと、何よりも「ご本人」が、離職は不本意だったろうけれど、「新天地」での仕事に励むことができるのではないか、という希望だった。
この件に関しては、俺も見て見ぬフリをしていた(いわば共犯の)立場だったこともあり、そんな俺自身の無意識が「犯罪者の自己弁護」をしてしまうと思う。前置きがつい長くなってしまうのもその辺の口の重さが原因だ。その辺はさっぴいてご理解いただきたい。

俺はこの職場での仕事もそれなりに長期間になっていたので、イジメる側の人たちともそれなりに良好だった。そんなわけでイジメる側の話も耳に入ってきてしまうことがあった。実際、話に加わったことは一度もなかったのだが。
彼らの、同僚に対する評価は概ね以下のようなものだった。

  • 同じ仕事をしていても、作業効率が悪い。
  • 丁寧に教えている(つもりの)ことが、伝わらない。
  • いわれたことができない(うっかり忘れることは、誰にだってあるのだが)。
  • 一見そっけなく感じられる複数の態度が、「やる気がない」ようにしか見えなくなる(他の部分で頑張っていても評価されない)。

曰く、「彼」と違って俺たちは、こんなに一生懸命、仕事に打ち込んでいるのに。
だがこの過酷な「現場」の労働環境で、仕事に不満がないヤツなんかいるはずがなく、俺には結局、自身の「待遇」に対する不満のようにしか見えなかった。
俺はこの点、最初から今の職場に来るとき、何も期待はなかったから、落胆もない。
職務に関する責任感は欠如していた、かも知れない。これほど「仕事」に対して考えていた他のスタッフたちと比べると。業界経験皆無の俺が就業できたくらいなのだから、それなりの職歴が必要なものでもなければ、その人でなければできない仕事、というものでもない単純作業だと思っていた(少なくとも、俺の担当していた仕事内容に限っては)。

また、イジメられていたと思しき同僚本人からは、親しく接しているつもりの俺に対して、相談めいたものは一度もなかった。いや、これは俺自身に対する弁解に過ぎないのかも知れず、もしかしたらシグナルは出してくれていたのかも知れない。

俺は自身がイジメの対象になっているわけでもないのに、解雇が決まる数週間前くらいからは出勤するのが正直憂鬱になっていて、上司にどう切り出したらいいのだろうか、そのきっかけを毎日探していた。
「彼と俺を、異動してもらえないだろうか…。」
とにかく、「彼ら」にとっては排除の論理であり、このことからわかるのは、イジメる側は必ず多数派であり、イジメられているのは個人だ。どうやらイジメの特徴のひとつ、らしい。

あくまで、主観。

話は更に以前に遡るが、俺が千葉に転居するきっかけとなった転職先は、女性ばかりの部署だった。この部署は本部業務の中でも多忙を極めていた。養う家族があるでなし、俺は自身の生活の糧よりも、せっかく10余年をかけて手に入れたアトピー寛解に代表される心身の健康や、趣味にすぎないはずの音楽活動での自由の方が大事、という身勝手なヤツなので、13ヶ月であっさり退職。現在に至っているわけだが。
俺の生活価値観は別にしても、俺自身も実はこの職場では、「ひょっとして今の俺、イジメに遭っているのではないか」という認識を持ってしまった。今だからいえるが、これも大きな退職理由のひとつだった。偏見を承知で書かせてもらえば、男同士だと互いに話しているうちに「まぁ、そういうこともあるかな」というようなミスも、女性上司(とその取り巻き)にとっては看過できないものらしい。また、「女性特有の気遣い」などとはよくいわれるが、これが(俺にとって)悪い方向に振れた場合、往々にして、仕事の全体像ではなく「重箱の隅」になってしまうことが多い、と俺は思っている。また、一旦失墜した俺への評価は、よほどのことがない限り、再評価に繋がることはなさそうだった。加えてまだしも営利企業だったなら、俺にも我慢のしどころもあったとは思うのだが…俺もまだ若かったな(気持ちが)。妙なところで理想と現実のギャップに耐えられなくなってしまったらしい。第一、こんなことで女性不信になってしまっては、俺の人生、まだもったいない。

ともかくもそういう状況に置かれて、イジメとは、イジメられる側が持つ極めて主観的な感情だということに思い至った。
だから、イジメている側が自身の行動にその認識をもてないのは、実は無理ないことなのだ。
「被害者」の主観が全てだから、西洋医学の発想の延長で考えるように「病巣部」を切り取ったり、なかったことに完治したりできるものでもない。
だから教育現場で「イジメ根絶」などとやっているのを見聞きすると、滑稽にすら思えてしまう。排除の論理も「イジメ」の主観も、人間の感情行為の一環という点では、まずそこに在るということが、ある意味「正常」な状態に思える(ここまで、イジメの具体的行為の卑劣度を考慮しないでの話だが)。
従って、イジメを教師が知ることは相当に困難だ。また、知ったところで事態が好転するとも思えない。「上」の立場から、「イジメは悪」という凝り固まった価値観でガツンとやったところで、事態は潜在化、陰湿化するだけだろう。
自治体での悲しい事例がこうしてニュースになる度に、子どもたちの方がそのことを身に染みて知っているから、実は最初から「オトナ」なんか頼りにされていない。

人はみな違う、ということ。

もっと遡れば、俺の小・中学校時代にだって、イジメはあった。
ただ、恐らく今ほど陰湿なものではなかったし、SNSなど「バックグラウンド」で行われるものでもなかった。何より俺には、数少ないものの必ず味方に回ってくれた友人がいた。
こうしている今も学校でイジメに遭っている人たちには希望のない話になってしまい申し訳ないが、現実に、数十年以上もこうしてなくならないものは、(社会通念上は悪であろうとも)根絶することは不可能なものだと考えた方がいい。
何より、こうして社会に出てもイジメはあるわけで。
学校内だけで無くしても意味がない。
問題の根本解決、とはならないが、さすがにこのままでは「自身の生命に関わる」と思ったら「学校に行かない」のもひとつの選択だろう。義務教育であろうとなかろうと。両親が教師だった俺には、そういう選択肢が(オトナから)提示されたことはなかったし、大学生時代にそういうニュースが徐々に目に入るようになってからは、実は「その手があったか!」、まさにコペルニクス的衝撃だった。

学校の外の世界は、限りなく広い。広すぎて最初は途方にくれてしまうかも知れないが、学校の外には、今起っているイジメとは無関係に暮らしている人たち、だからこそ相談できる人たちがたくさんいる。そこで「生きる力」を、したたかにしなやかに、身につけて欲しいと思う。
長らくイジメに耐えてきて、しかも自らの命を絶つほどの精神力があるうちならば、そんなに困難なことではないと思うのだ。
俺は「生きていさえいれば、必ずいいことがある」などとはいわない。ただ、学校という世界に閉じこもってする勉強より、自らの五感で得たこれらは、はるかに未来の自分に役立つことばかりになるはずだ。

一方、その認識を持つことができない「イジメる側」にしてみれば、その物言いや立ち居振る舞いのいちいちが、他人である相手にどう受け取られるかは、実は誰にもわからない。そういう俺だって、今この瞬間も誰かをイジメてしまっているのかも知れない。
結局ヒトは普通に、理解しあえるなんてことはなくて、自分以外の人間と接するときは、相手は自分と「違っててあたりまえ」という思いを常にもっているしかないのだろう。この日本に、深刻なイジメが減らないのも、案外この辺りが原因なのかも知れない。
だからこそ、理解しあえたと思える瞬間がとても貴重なんだし。
同じ景色を見て、同じ絵や写真を見て、同じ音楽を聴いて、同じように感情が動いた、その瞬間を分かち合えることこそが。