急行「秩父路」号

久しぶりにテツ全開な、長文*1

なんでたかが鉄の塊にすぎない機械の、それも単なる移動手段にすぎない道具たちに、こんなにも思い入れしてしまうのだろう。難儀な趣味だよな〜ホント。
二日酔いの頭痛をおしてまで降り立ったのは、秩父鉄道の山側の終点である三峰口駅。かつて湯治に通った際には何度となく、降り立った駅だ。
さすがに月曜朝の下り急行に乗るほどの早起きは、できなかった。
見慣れた広い構内には、夕方の折り返し時間を待って側線に待機中の普通電車が数本と、今日の俺のお目当て、朝を下ってきた急行電車が既にパンタグラフを降ろして休んでいる。

こんな十年一日のような山の中の電鉄にも、「その日」は必ずやってくるもんなんだな。
この急行電車が、11月25日を最後に引退、廃車・解体となる。西武鉄道から購入済み、同じ白地に青帯の装いに改造された急行に置き換えられるのだ。側線にはその「新車」も折り返し時間を待って留置されていて、すでに営業を始めているとわかる。

待機している側線から、多分17:20の急行で折り返し、と判っちゃうのも湯治時代の経験からだが、念のため昔ながらの改札口から窓口に声をかけ、どの急行便に就くのか訊ねておく。
長患いだった湯治への帰り途が遅くなってしまった際に、時々利用した。ときにはわざわざ狙って遅く帰ったりもして、俺にとっては特別に贅沢な時間だった。
急行料金は自由席のみで200円と、決して高いものではないけれど、なにが特別だったかというと・・・。
元を正せば由緒正しい「急行」の末裔、と呼ぶべき電車なのだ。

昭和38年から国鉄で、既に走っていた急行型のボディは手堅くそのままに、足回りを急勾配・寒冷地仕様で固めたバージョンとして登場、全国各地で活躍した。折しも高度経済成長期のレクリエーション・ブームに乗って、中央線や上・信越線ではシーズン中、山に向かう人たちやスキーヤーで満員、身延線飯田線のような山岳地ローカル線にも有料急行として乗り入れるようになり、電車急行の「黄金時代」を担う。末期にも東海道線での急行「東海」のほか、「ムーンライト・ながら」の前身「大垣夜行」での運行など、長駆・俊足ぶりがなつかしい。
やがて「特急」の呼び名がそもそも「特別急行」の略だということもわからなくなるくらい、全国に特急電車が頻繁に運行され始め、新幹線網をその中心にしてネットワーク化、どこでも誰にでも乗れる存在になると、停車駅も特別料金もそれほど違わないのに、座席だけがリクライニングもしないボックスシートだった急行は影が薄い存在になり、徐々に活躍の場を追われる。最近は臨時列車や団体列車、一部の夜行列車としてのみ走っていたが、今度もまた「特急型」が世代交代してきたのに追われて、全て置き換わった。
国鉄→JRの線路上ではこうして急行型は引退してしまったが、地方私鉄にとってはまだまだ使い回しのよい車両だった。特急型と違い、改造なしでも最低3両から編成が組めることもあり、この秩父鉄道に引き取られた9両のほかにも、富士急行では「フジサン特急」として6両が、また長野行き新幹線の開通とともに信越線の各駅停車として使われていた車両が、軽井沢―篠ノ井間を第三セクター化したしなの鉄道にそのまま譲渡されている。しなの鉄道ではJR時代同様各駅停車として、3扉の在来車に混じって使われており、富士急行に行った車両はJR時代に臨時電車用途のかなり大掛かりな改造(先頭車は小田急ロマンスカーのような2階建て構造、車内は特急用のリクライニングシート)を受けていて、その名も「特急」になっている。
秩父鉄道だけが、ことばのイメージだけからそもそも急行がないのに「特急」を走らせる、などということなく、頑ななまでに有料急行として運行を続けてきたわけだ。
その、国鉄の長距離急行がまだ、デッキまですずなりに人を乗せて、全国を走っていた頃。
高校時代、朝の中央線下り電車はまだクーラーなんぞついていなくて、三鷹駅で必ず急行の通過待ちをした。特別料金を徴収する急行はもちろん、クーラー装備。スーツ姿の似合う特急とも違い、待ち合わせた横を通過していく窓から覗き見る車内はなんとなく、「普段着」のヒトが多かったように思う。楽園行きの電車、そんな気にさせられたものだ・・・何度このまま学校をさぼって、あっちの乗客になれたらなぁ、と思ったことか。
最近すっかり買わなくなった鉄道雑誌だが、今回の悲報に接して久しぶりに買ってしまったムック「形式165系」(イカロス出版)。その秩父鉄道の急行についての文中にも、「窓辺いっぱいに並べられたツマミや果物、ビールにジュース・・・」といった記述があったが、まさに往年の急行の華やかさを象徴する、「普段着」の光景だった。同じような表現を自分が知る限り最初に見たのは、80年代の「旅と鉄道」だったか。すぐには手元に出てこないのだが、急行電車というとそういう光景に思いを馳せる人は、結構多いらしい。

じっと引込み線に止まったままの急行型を眺めながら、そんな様々な思いが去来する。
先ほどのムックには「車歴一覧」という超マニアックな資料もついていたので、帰宅してから車番を辿って、まさかにあのとき中央線を走っていた車両なんてことは・・・と探してみた。新製配置から91年に秩父に来るまで新前橋区(車庫)ひとすじ、「彼ら」はどうやら、ひたすら上越国境を越えることに酷使されてきた生粋の急行型だった。
2時間ほど、思いつくようにシャッターを押しては、待合室のベンチで休み、を繰り返し、山の中の小駅の黄昏(といっても雨だったが)を、五感で感じつつカメラに記録していった。今年の紅葉は寒暖差があまりないせいか、去年ほど彩りがはっきりしてないみたいだ。

16時過ぎ、運転手がパンタグラフを上げて命を吹き込む。耳慣れた発電機とファンの音、ドアの開け閉めや各部の動作点検の音が、静かな山里に響く、俺の知らないところで毎日繰り返されてきた、夕方の光景。駅前の家々からは、夕餉の支度の匂いが漂いはじめた。

17時、窓口で急行券硬券!)を買って、既に1番ホームに据付けられた「最後の」急行電車に乗り込む。周囲はもう真っ暗になってしまい、役に立たないカメラはカバンにしまう。先ほど挨拶を交わした「同好の士」は、軽く会釈すると隣の車両に乗りこんだようだ。

これで本当に、乗ることができなくなってしまうのか。そう思うと夜の無人の車内が、かえって胸を締め付けるような気分にさせる。祈るような気持ちで湯治に通っていた頃の自分が重ね合わされて、なんだか一緒に闘ってきた「同志」のような、勝手な思い入れにもなってしまう。
蒸気機関車のように保存されるほどの文化遺産ではないかも知れないけれど。
彼らはただひたすらに、寒暖差の激しい、決して走路状況もいいとはいえない山奥を走り続けて、今ひっそりと最後の使命をまっとうしようとしていた。
途中駅からは、通勤帰りに乗り込んでくるサラリーマンたち。もう「新車」との乗り比べは済んだのだろうか。率直な感想を聞いてみたい気もする。どっちにしてもこの通勤環境はうらやましい限りだが。駅や車内には、さよなら列車のポスターが貼ってある。

三峰口で乗車したときには一旦やんだはずだったが、寄居に着いたら再び・・・涙雨か。

その、さよなら列車*2が走る25日、俺はステージで歌っているはずだ。
ひとり静かに別れの思いに浸る機会がもてたのは、却ってよかったのかも知れない。

*1:こんな話題に反応できちゃう人は、テツの素質あり。染まるのが怖かったらあまり俺に近寄らない方がいい、かも・・・(^^;

*2:こういう場に居合わせて、あまりいい思い出になったことはないけどね〜