判明した経緯いろいろ

今年も静岡の祖父からみかんが届いたので、いつものように父がお礼の電話をしたが、通じなかった。時間が遅かったので翌日、近くに住んでいる叔父に確認してもらうように連絡を取り、折り返し連絡があったのが昼過ぎ。さすがの叔父も、電話口の向こうで少し取り乱していたという。
窓も玄関も、元々戸締りをしているような家ではなかった。布団の枕元に電灯がついたまま本が開かれており、布団を出たところでうつぶせに倒れていたのだそうだ。
大往生だろう。
俺はこんなときばかり、薄れゆく記憶の中で祖父は何を思っていたのだろうなどと想像を巡らしてしまい、我ながらどうにも使いモノにならない。それでも金曜午前中の会議だけは、発議役だったため抜けられず、なんとか終らせてから昼食も取らず、そのまま東京駅へ向かった。道中寝ていこうと思っていたが、気ばかり高ぶっているらしく、やはり一睡もできず。
掛川から乗り換えた在来線沿線の景色は、家の並びも空の色も、どこを切り取ってもなぜか俺の中の「静岡」の画で、幼少時代に俺が見たイメージそのままに、赤銅色で冬枯れている。気の抜けるほど穏やかな、温暖な東海地方の風景。
遺影の祖父は見覚えのある笑顔だったが、亡骸は死後硬直が激しかったらしく、俺の知っている祖父の顔ではなかった・・・どうやら今夜は俺、泣かずにすみそうだな、と思った。

通夜がつつがなく終わり、戻ったホテルではちゃんと寝られたはずなのに、体の中ではちゃんと日付が変わっていない感じ。今こうして思い返していても、通夜と葬儀のどっちでのことだったのか判然としない出来事がある。

出棺の際、俺を含めた数少ない男孫4人が指名されて、お棺を担いだ。
思っていたほど重くは感じなかった。
ただ、担ぎあげるその刹那、自分の心の中で「さぁ、ウチへ帰ろうな、じいちゃん」と呟いてみたら、そのことばに自分の内の何かが反応してしまったらしく、周囲にみっともないくらい涙が止まらなくなってしまった・・・その場で「自分の葬式の時は、この4人にお棺を担がせるから」と常日頃口癖のようにいっていたのだと、従姉妹から告げられた。
静岡に残っているイトコ連中はあらかた結婚し、子どもまでいる。一方俺はといえば相変わらず、地に足のつかないような生活だ。さぞかし古いタイプの人間だった祖父にとっては、不本意で頼りない「総領」だったことだろう。祖父を悲しませることしかしてこなかったな。
結婚しなかったことも、教員になるのを断念したことも。

一族の動向にいつも、睨みを利かせているような、祖父だった。
そんな束ね役を亡くして、一族の、ひとつの時代が確かに終った気がした。
降水確率70%との天気予報がすっかりはずれて、コートが暑いくらいの、2月の小春日和のこと。