海辺で読書

あまりに非常識なデキゴトがあったお陰で、気持ちがどうにもむしゃくしゃ。
どーやったところで集中できそうにないので、ついに諦めて楽譜を放り出した。ようやく風が涼やかになった曇りの日の、葛西臨海公園

少しでも気分が軽くなれないもんかと、楽譜の代わりに取り出した本は、
バカの壁

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

さっき、途中の古本屋で買ってみた(今更ながら)。

薬学部の学生たちに妊娠・出産のドキュメンタリービデオを見せたところ、将来自らが経験するかも、という視点で自分の身に置き換えて見ることのできた女子学生たちの感想に比べ、「出産」というものに実感を持ちたくない男子学生たちの感想は一様に「既に保健体育の授業で知っているようなことばかりだった」というものだった、というエピソードで始まる。

自分が知りたくないことに対して、自主的に情報を遮断してしまう人間のわがまま勝手さ、「バカの壁」。
本当は、色々と知らない場面、情報が詰まっているはずなのに、それを見ずに「わかっている」と思い込んでいる。
そういう学生に限ってまた、安易に「先生、説明してください」と聞きにくるという。
もちろん教育機関の一員=大学教授である筆者は、横着をするわけでもないのだが、
「簡単に説明しろって言うけれども、じゃあお前、例えば陣痛の痛みを口で説明することができるのか」
と、ことばだけでは伝えられないこと、理解されないことがたくさんある、という前提が欠けている学生に、危うさを感じているという。

そんな折、
「日本人は“常識”を、“雑学”のことだと思っているんじゃないですかね」
ピーター・バラカン氏に指摘されて、これだ、と思ったのだそうだ。
現実はそう簡単にわかるものではない、という前提を経ないまま、ただ自分は、自分だけは「客観的」である、と信じて疑わない人たち、そしてそういうマスコミの情報に、いとも簡単に操作される社会。
実証できるという点で、多くの人たちにとって最も合理的と思われている科学ですら、必ずしも「真理」でない場合がある。
地球温暖化についていえば、気温があがっている、というところまでが科学的事実だが、その原因が二酸化炭素だ、というのは科学的推論にすぎない、という。行政の担当者は、「世界の学者の8割が、炭酸ガスが原因だと認めている」という・・・真実への議論が多数決にすり替わってしまっているのだ。そんな根拠だけに頼って、環境省をはじめとする行政という大掛かりなシステムが動いてしまって、もし万が一、その推論が間違っていたとしたら・・・。

俺はこの部分に至って、あれだけ強引にイラク戦争に踏み切ったアメリカが後に「化学兵器はなかった」と弁明したことを思い出した。
また、厚労省血液製剤の危険性を看過したこと、社会保険庁自治体窓口での年金ネコババ天下りに政治家の汚職・・・。みんな職場環境内でしか通用しない論理で、あるひとつの可能性しか考えないことを自分たちなりに「合理的」に考えているつもりになって、行動してしまった(または行動しなかった)結果、という視点からは、相似形である気がする。
彼らがマガリリニモ(世間的に)高学歴と呼ばれる人たちであることを考え併せれば、そうした「結論」に至るまでには、相当な「知識」(=誤解を承知で、ここでは「雑学」という)を要したはずだろうけれど・・・。
逆に常識というのは、(16世紀フランスの思想家・モンテーニュの説を要約すれば)「誰が考えてもそうでしょ」ということ、「人間なら当然そうでしょ」ということ。「客観的事実」(の存在)など、盲目的に信じてはいない、それこそが「常識」を知っているということだということなのだそうだ。