ことだま

夜、仕事上のお付合いからちょっと変わったパフォーマンス・ステージを見に、高円寺。
「言霊」と名づけられたロングラン企画のうちの1回。様々なジャンルの朗読に、楽器が即興で音を加えていく、という内容。今夜の朗読は、和歌。楽器はシタール、フルート、タブラの編成。

こういう、あまり誰もがやっているわけでないカタチの、自分としても未体験なパフォーマンスに出くわすと、見るほうのこちらとしてはつい、全体の雰囲気からでも何かを得ようとするモード。
演者としては、それこそ一首一首、大切なことばを全て伝えたいというのは痛いほどわかるので、大変申し訳ないのだが。間に休憩を挟んでの2時間は、さすがにボリュームがありすぎて、俺の頭のキャパをとっくに越えてる。

かくいう俺の興味は、朗読ことばをきっかけにしたアドリブの掛け合いってどんなものになるのだろう、という、JAZZもどきをやっている奏者のハシクレとして。
かように少しでも、演者側にでも立ってみられないと、「ことばが難解」という段階で脱落してしまうかも・・・案の定、俺の前の席で彼女が男の肩にもたれかかっていたアベックは途中退出しやがった。巷に溢れるラブソングのように、ヤワなパフォーマンスじゃなかったからね。

ステージ上で楽器に囲まれて「多勢に無勢」だった朗読者は、どんな感じだったのだろうか、いずれ機会があったら伺いたいものだ。
ことばを生業にしている人のすごみというか、真摯さというか、そういう印象だけは、鮮明に伝わってきた。
パフォーマンスって、やっぱり演者のエネルギーなんだな、とことばにしてしまえば至極あたりまえのことを実感した。

なるほど俺自身の、もやもや気分の正体は、自分の音楽スタンスの行き詰まりが原因なんだな、ということも、目の前のステージ光景から天啓のようにすっと降りてきた気がする。
自分たちの考える音楽の範疇だけでは、どんなに一生懸命やってもやがて行き詰る、というのは、まさにこのステージ上の試みが体現していたことのような気がした。

それにつけても今更ながら、和歌に織り込まれる自分の名前(本名)が重荷だねぇ(^^;
今の俺は、煩悩だらけ。
たばこも酒も、簡単に絶てるくせに、缶コーヒーがやめられないので、右手の人差し指の付け根で破れている皮膚が、いつまでたっても治らない(と医者にいっても信じちゃもらえないだろうが、これはごく個人的な経験値)。