結婚式披露宴での演奏前夜


5月頃だと思い込んでいたが、調べ直してみたらなんと今年の3月だった。バンドHPのコメント欄を通じて、なんの前触れもなくメールが入ったのは。
学生時代、同じ合唱部で歌っていた仲間であり、まだ「アカペラ」という定型が世間になかった頃、3人から12人編成の様々なアカペラを一緒に試行錯誤した「同士」であり*1、このうち勇み足でやっちまった様々な試行錯誤の過程では、数々の失敗も共にした、「江古田黄金時代」(俺がひとり暮らしを始めたご近所住まい3人組)を築いたひとり。つまり俺が今のスタイルで歌い始めるきっかけとなる時期を共に過ごした大学合唱部の後輩…卒業するときは先輩(笑)、であり友人。
卒業してからもしばらく、転勤族の彼のもとに集まっては細々と歌い続けてきたのだが、社会人バンドの常で互いに忙しくなり、いつの間にかフェードアウトしていた。
後に一緒にStuckを結成することになるおくちゃんとも、この時期からずっと、一緒に歌ってきており、おくちゃんと新郎とはこの間もずっと連絡を取り合えていたらしい。
俺が歌い続けてきたご縁で、こうして改めて連絡を取り合えるようになったこと自体、とても喜ばしい「出会い」だ。音楽冥利に尽きる。
6月のWINS阿佐ヶ谷のライブにはふたりとも、わざわざ遠方から足を運んでくれたので、ウチアゲでは一緒に飲んで、互いにすっかり学生時代に戻ってしまっていた。
一連のやりとりが復活したきっかけ、実はこの10月に予定の結婚式であった。
後で披露宴でご一緒させていただいた、新郎の高校時代の同級生という方もおっしゃっていたが、「男の友情」なんてものがあるかどうかはともかく、男同士ってなんだかこんな感じで、どんなに会えないままの時間が過ぎても、会えばすぐに当時の関係に戻ってしまうものらしい。

というわけで、WINS阿佐ヶ谷としても初めてづくし。
このメンバーでの「ブライダル営業」。
このメンバーでの泊まり、遠征。

事前打ち合わせを重ねていくうち、
会場はワイヤレスマイク使用であることが判明。
せっかくの機会なので、新郎とおくちゃんも加えた総勢6名で、学生時代を思い出して1曲セッションしちまおう。
といったことが決まる。
俺はStuckが解散したとき、誰が言い出したのだったか唯一の例外再結成条項である、「メンバーが結婚した場合(披露宴での演奏)」、という文言を思い出していた。まぁその後、Stuckメンバーは俺を含めて誰ひとり結婚できていないわけだが(笑)。

そんなこんなでこの10月は、毎週のように「出動」しているWINS阿佐ヶ谷であった。
新郎のご好意で、前日土曜日に現地入り。風光明媚な、富士山を間近に臨む富士急行線富士吉田駅改め富士山駅近く。
残念ながらこの週末の天気は広い範囲で雨。結果、富士山のお姿は一度も拝めなかったが、これは山行きの常で、山の神々からの「また来いよ」という啓示だと理解。ご存知の通り俺は「雨男」だが、今回は新婦が「雨女」さんだとか。
2名は自家用車同乗、周辺観光の後でホテル入り。俺は富士・河口湖方向への交通手段としては定番の高速バス、もうひとりは東京でお仕事を終えてから、同じく高速バスで深夜、現地合流の段取り。

新宿では、ほぼ全ての高速バスの発着が「バスタ新宿」に集約された。
実はこの間一度も使ったことがなく、なんか「迷子になっているうちに、バス出ちゃった」という嫌〜なシナリオが見えるようだったので、同じ初めてならと、今回俺は東京駅発を手配してみた。
それでも遠出の常で早めの行動としたが、東京駅(鉄鋼ビル前)のバスターミナルはわかりやすい位置にあり、バスも2台しか入らず、これならターミナル内で迷子になる心配もない。
しかしさすがに、早く着きすぎてしまったな。まだ発車予定時刻まで30分。
俺は日本橋から歩いたが、呉服橋の交差点を挟んで、地下鉄の出口が日本橋と大手町で向かい合っているという近距離。
手持ち無沙汰に周辺をうろうろしていたら、北町奉行所跡やら江戸城の石垣やら玉川上水跡やら、興味深いものがゴロゴロ。山梨県のアンテナショップまで見つけてしまった。
コピーに曰く、「週末は山梨にいます」。

車中で食べる昼食を確保して、丁度入ってきたバスへ乗車。なんと一番前、運転席の直後の席だ。
通路を挟んだ反対側の席は若い女性ばかり3人組で、もれ聞こえる会話の内容から、同じく結婚式に向かう方々らしい。年のころから、もしかして新婦側の知り合いかと勘ぐってみたが、新郎についての話が食い違っており(スキンヘッド?!)、どうやら「別件」らしい。
某有名建設会社のご一行らしく、ご本人たちは早くして既婚、それぞれ小さなお子さんもいらっしゃるようだが、社内や同級生の恋愛動向について詳細にお話しいただき、その女性週刊誌っぽさ満載の内容があまりにも面白かったので、車内でヘッドフォンして楽譜に目を通しておくか、と思っていた俺の決意が、今のところのっけから崩壊し、カバンからヘッドフォンを取り出すに至っていない。
そんなこんなで「耳ダンボ」状態になったまま、あっという間に富士吉田に着いてしまった。

早く着いたら富士山駅の構内だけででも「俄か撮りテツ」でもしようか、などと思っていたが、モチベーション下がるこの悪天候。いずれにしても一旦ホテルに辿り着いて、荷物だけでも預けてしまおう。
メンバーの中では俺が一番乗り、のはずだったのだが…。
高速バスのターミナルを降りるとこの辺り、とにかく車優先の作りで、歩道はすぐに途切れるし、2車線の広い道路を渡る横断歩道はコの字だったりして、なかなか思う方向にまっすぐに向かわせてくれない。
程なく広い道路のほかには森しかなくなり、いよいよ「救援要請」のメールをメンバーに打つべきか、と思っていた矢先、どうやらこの国道を逆進していることに思い至り、慌てて引き返す。ホテルのHPにあった地図も、南北逆だったしなぁ、と人のせいにしたりして。
この辺り、既に紅葉が始まっており、しかしこの冷たい雨の日に、汗だくになって無事辿り着くと、フロントには丁度、自家用車組2名の姿。
俺が一番乗り、どころか遅い到着になってしまった。
思っていたよりは小ぢんまりとしたホテルの真新しい建物は、綺麗に維持管理されていて居心地がよさそう。全員の鍵に各メンバーの部屋番号一覧をつけてくださっていて、こういう細やかさがありがたい。部屋着とスリッパで、別棟の温泉・露天風呂まで行き来できるのも、気兼ねなくていい。
富士山周辺地観光へのベースとしても、バス停から意外と近いし(迷子にならなければ!)、今度は「お仕事」抜きで、ぜひまた尋ねてみたいと思う(願わくば富士山の拝める天気の日に)。

部屋で一息。
荷解きをしていて、ゆたかさんがYシャツを忘れてきたことに気づき(いや、このタイミングでよかったが)、夕食時間までの間、周辺観光も兼ねてちょっと出ようか、という話になった。
ということで、ナカチョの車で「出動」…かと思ったら、「ダイソーにあるよ」とナカチョ。「ホントかよ?」、と疑心暗鬼のまま駐車場を出た、と思ったらすぐ隣がその、ダイソー
なんと、あったよ!(さすがに100円ではないが)
しかしさすがにサイズや色の条件が折り合わず、他の店を探しに行くことになり、無事ゲットを果たす。
安堵して改めて物見遊山に。
ということで、そのまま忍野八海に連れていってもらった。
まもなく暗くなるという遅い時間帯にも関わらず、かなりの人で賑わっていてしかし、噂には聞いていたが、日本語での会話が聞けたのは俺たち同士以外では、駐車場入り口の「300円です」だけだった。

さてそろそろホテルに戻るか、というジャストなタイミングで新郎からメールで「17時には仕事が上がれるので、練習できませんか?」とのこと。
取り急ぎホテルに戻ると挨拶もそこそこに、今日は使っていない地下宴会場に案内してもらい、ここで初めて、おくちゃんも交えた5人で何度か歌い通しをした。
実は一仕事終えて合流のわかすぎさんの到着が22時過ぎなので、この段階ではまだ1パート欠けている。
思えばこの2人と一緒に歌うのは、俺としても何十年ぶり。やらなければならないことは多けれど…感無量だ。
俺の迷子、ゆたかさんのYシャツ、と出足好調(?)な今回の遠征。さて次はわかすぎさんが何かやらかしてくれるのではなかろうか、と勝手に期待値が上がるところ(^o^)
さっくり打ち合わせのような練習を終えると、そのまま揃って夕食へ。
明日、新婦と管楽器ユニットで演奏されるご友人も合流された。
新婦は年若い割にしっかりして、芯の強そうな感じだった。こうして久しぶりに一緒に歌ってみると、新郎の方がまだまだやんちゃしそうだ。
俺はすっかり、学生時代の気分に戻ってしまい、とはいえ左手には現バンドメンバーが座っていて、話し方ひとつとっても違ってしまい、なんだか自分でも妙な具合のままで酒が進む、楽しい夜だった。

夕食を済ませて散会すると、ホテルの大きな露天風呂で、(迷子と)練習での汗を流した。
お湯は俺好みのぬるめでやわらかく、気のせいか足の痛みも少し和らいだようだ。
天気がよかったら、星もよく見えたな〜きっと。
この時期、土日にやっている「あひる風呂」が気に入ってしまった。この「あひる」、売店で売っていたので買って帰ろうと決意。こっそり浮かべては、思い出に浸ろう。

予定通りわかすぎさんが合流して、部屋でメンバー揃って飲みなおす。
0時頃に、早朝ジョギングを日課にしているナカチョがいつものように睡眠モードに入ったところで散会した。

さて、明日はいったいどんな一日になるのだろう。
車で移動中、ガソリンスタンドで見かけた看板「セミセルフ」、とはいったい?
数々の謎を残して、富士山ふもとでの夜は更け行く…。

*1:この頃一緒に組んでいたバンドのうちのひとつでは、俺がボーカル・ベース担当だった