集中力について。

WINS阿佐ヶ谷のブログにリハ・レポートを書いていて思い出したのだが。
リハ・レポートは「公式」ブログではなく、元々俺が管理させてもらっている〔非公式〕の方で書くのがなんとなく通例になってしまっているので、そちらに併せて書いちゃってもよかったのだが、俺としても一向に結論の出ない、まとまらない話でもあるし、あくまでも私論なので、こっちに書くことにした。

まぁこう毎日暑かったり、ここ数年の気候変動の幅の広さではそもそも、集中力なんて出るはずもない。
その、集中力について。
どうもアジアの小国文化としてはつい、脳みそを「締めあがる」ような精神論を持ち出したくなるところ。
俺の経験ではそんな、特別な鍛錬方法があるわけではないというのがここ数年の個人的持論。
となれば都度、試行錯誤、しかないわけだが、おぼろげな指針としては、その方向へ思いつめるよりはむしろ脳を「遊ばせる」(喜ばせる、といってもよい)方が、「捗る」気がする。
自身の好きなことや楽しいことは、肉体的に疲れていても何時間でも続けられる、という話、よく聞くでしょ。
まさにこれこそが一番、効率よく脳を働かせる、物事に集中させる、最大のコツだと思っていて、これを意識するようになった数年前から今のところ、これを否定する経験に出会っていない。

その上で、俺たちの年代の人間は、アカペラという演奏ジャンルが今のように確立されていない頃、合唱部で歌っていたわけだが、その際に日々繰り返されていた「ケースの積み上げ」による練習がやはり一番、理にかなっているのではないかと思う。
ただ、気の持ちようとしては間違いや演奏ミスを恐れてビクビクするのではなく、「間違いは恵み」だと思って盛大にやらかす。当然、メンバーからは失笑を買うが、これをその場で笑いのタネに変えられないようでは、まだまだ音を「楽しんで」いるとはいえない*1
お陰で自身の記憶にも刻み込まれて、暗譜は捗るし二度と同じ間違いはやらかすまい、という覚悟にもなる。
もっともこれは「事故」と呼ばれる程度の、突発的な演奏ミスの防止への有効策でしかなく、フレーズの組み立て方や歌唱音域を広げる、といった根源的な課題となると解決にも時間がかかるし、楽器の演奏と同じく個人で反復練習をするしかないと思うのだが。
「事故」というのは起こるべくして起こるもので、複数の要因が絡み合ったものから顕在化する確率が高いので、現状の自身の演奏スキルだと同じことを本番演奏で起こす可能性もかなり高かったはず。誰も聴いていない練習でやらかしちゃったことは、そう思うと「不幸中の幸い」、同じ過ちを本番演奏前に防止できるのだ。
演奏ミスを恐れてビクビク歌っている状態は、実は「アウトプット」になっておらず、以前どこかで書いた落語家の師匠のことばを借りれば「セリフを覚えただけ、というのが一番危険なんですよ」というヤツだ。「表現」しているというには程遠く、一聴すると音は出ていても客席まで「届く」演奏にはなっていない。自発的な「アウトプット」になっていない、ということは無意識に「この場を切り抜ければ」という受験勉強的な発想に陥っている状況なので、仮に練習中に同じようにメンバーの失笑(^^;を買うような「事故」を起こしたとしても、その場を離れたら忘れてしまう可能性も高いように思う。

話は逸れるが、俺が最近好んでやっているスティック練…ドラム・スティックで練習パッドを叩くのは、今更リズム感を磨こうとか、リズム感を通じて演奏中の集中力を身につけよう、などという目論見ではない。
あわよくば、いつの間にかドラム・ソロでの手数のひとつにもなればいいな〜とか、思ってはいるが。
俺自身は元々低血圧で寝起きが悪かったのだが、ある時偶然に、ひとあたり声を出す前にリズム感から身体を起こしてみたところが、思った以上に身体も頭もシャキッと目が覚めた、という経験から続けるようになったものだ。
これが副産物的に、本番前にやることによって、一旦無心になって楽譜を忘れることができる。
ただでさえ緊張を強いられる本番演奏直前に、楽譜を持ち出して自身の気持ちを追い込んだところで、いい結果が得られたことがないのだ。
いろんなフレーズを叩いているうちに、歌でもシンコペーションのような複雑なフレーズが来ても、身体を硬くして構えるようなことがなくなったのも、想定外の収穫だった。楽器演奏は、身体のどこか一箇所でも緊張で固まってしまうと、俺のような楽器素人でも顕著な音の変化としてわかる。自分の体内から発せられて自分の体内にある耳で確認せざるを得ない声と違って、楽器そのものが身体の外に独立した「第三者」なので、音の微妙な変化を自身の耳で確認することが容易だ。
本番演奏前の集中力、という点では、かつて一緒に歌っていたメンバーの中には、トイレの個室に篭る、なんて豪傑もいた。かように方法は、人によってまちまちなのだと思う。

話はさらに逸れていくが、音楽も、絵画も、その他の文化と呼ばれる創作活動全て、その一面に「オトナが遊ぶ」ための仕組みを備えていると思っている。
オトナになると世間体もあるし、子どもの頃のように夢中になって遊ぶ、というわけには中々いかない。これが幼い子どもだったら、ただスティックでモノを叩いているだけでも、それが自分にとって楽しいことだったら周囲の目も気にせず延々と楽しんでいるはず。
そこに「音楽」という、いわばブランド名をつけてあげて、スティッキング、だとかストローク、だとかいろいろ理論、というかへ理屈をつけてあげることで、オトナが幼い子どもと同じ創造力の中で遊んでいても、周囲から白い目で見られることがなくなる。
そんな大義名分を設定してあげないと、何かと人の目が気になる社会の中で生きているオトナになると、無心になって遊ぶことができない。
けれど、音楽をやるということはやはり何か日常生活では満たされないものがあって(俺だけ?)、それが楽しいと思うから、こんな思いをしてでも今も続けているわけなので、「子どもっぽい」というよりは冒頭、「自身の脳を効率よく働かせる」装置として、どこか自己防衛的、本能的に求めてしまうもの、なのだろうとも思う。
無心になって遊べること。
これこそが他の動物と人間との、大きな違いなのだと思う。

*1:だからって本番演奏でのミスをいちいちMCでカミングアウトしちゃうのは、違うと思うが