ひとりで生きたい、だけなのに。

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別に、人間的「自立」を目指している、という話ではない。
っつーか本当に、「ひとり」で生きさせてくれない国だ。


アパートの保証人問題は、2年ごとに俺の頭を悩ませる。
全くの偶然ではあったが、思えば初めて自分の意志で選んだ街、棲み家であって、今は不思議な力で引き寄せられたのではないかと思えるくらい、この街の位置が、歴史が、規模が、大変気に入っている。
しかし2年の手続きを繰り返す度に、不本意ながらもいつか必ず出ていく日が来ることを、強烈に想起させる。
この俺にとっての「サンクチュアリ」であり、千葉隠遁生活を支える拠点も、その存在自体決して永久盤石なものではなく、所詮俺の幻想に過ぎないのか。
とりわけ今回は音楽活動からいっさい身を引いたタイミングでもあったので、心身共に堪えた。

親世代が搾取している、とまではいわないがしかし、親世代が当たり前に思っている以上にこの社会は今、「分断」が進んでしまっている、というのが俺の肌感覚だ。
俺が俺の思っている程度に社会から見て「クズ」な存在だとしたら、クズの周りにはクズしか集まっていないわけで。
これまで俺と割と話の合った、仲のいい人たちのほとんどが非正規雇用だったりする。
非正規の世界には、非正規しか棲んでいない。
この国は高度経済成長期以降、住宅福祉の分野からはとっくに手を引いてしまっているので、実はそれが未だに碌なセーフティーネットがないことの原因にもなっている。
住民基本台帳を唯一の根拠に行う生活支援・福祉のシステムにおいて、住所不定では公的支援が受けられない仕組みになっており、つまり住居を失うということは、生活支援が一切受けられないレベルにまで一気にオチることを意味する。途中段階などない。
見方を変えると、本人すでに口もきけない死体ならともかく、生きている間であっても(保証人制度も含めて)第三者の立ち合い証言がないと、本人と認めてすらもらえないものらしい。

だから。
しかるべき年齢までには互いに「保証人」になれるくらいにはまっとうに働いとけよ。
そういう人間関係が築けないのは「自己責任」。
たとえ正社員と同じ仕事(と業務上の責任)を背負わされてても、暮らし向きが一向に楽にならないのも「自己責任」だ。

なおかつある程度トシがいったら結婚していて、家族を持っているのがまだまだ当たり前、という空気は、相次ぐ大震災の頃あたりからか、一層強まってきた気がする。
この社会は、そうやって「戦い抜いた者たち」だけのものだ、
とでもいいたげな何かが、ニュースの中、広告写真、流行歌、いたるところ、そこら中に、巧妙なメッセージとして散りばめられて、仕込まれている気がしてならない。
このところの俺は、そうでなくともいちいち過剰に反応してしまう。

在宅ワーク中は、上司のひとりごとに反応したり電話をとる必要がないので、ラジオがほぼ一日中つけっぱなしになっている。
テレビと違い、画面がない分エコ、というか身軽な感じがするし、5月に相次ぐ祝日でもバカ騒ぎな特別編成をすることなく通常プログラムだったりするのもありがたい。かつての朝ドラのように、間に入るニュースや交通情報、天気予報で時計を見なくてもだいたいの時間がわかるし。
最近は、ラジオ各局の方が「個人の生活に寄り添います」みたいなキャッチで、情報ツールとしてのラジオを見直そうキャンペーンみたいなことになっている一方で、俺が好んで聞いている番組へのリスナーからのメールがこの自宅待機状態のせいか、「家族とともにある幸せ」的なものばかりになってきた(個人の感想)。
日頃名だたる「メール職人さん」たちまでもが、ご自身の嫁・旦那をネタに登場させるようになってきて、いまさらながら配偶者持ちだったことが判明したりして、なんだかツマらん。
ラジオネームや文体から勝手に思い込んでいた性別が、「え、旦那いるの?」で女性だったことが判明したり、逆に女性だと思っていた人が男性だったりする発見は、最初の頃はそれなりに面白かったものの、結局「ウチの嫁(旦那)自慢」な内容に終始されちゃうと、遠出自慢や外食自慢ともども「あー、末永くお幸せに」という捨て台詞しか思い浮かばない。

妻帯者と子育て経験者だけが人間として「一人前」、という理屈の押しつけには本当に反吐が出る。
所詮、俺の心の持ちように問題が、という話ではあるんだが。
一方の俺はいつまでたっても、何をやっても中途半端で半人前なのはゆるぎない事実。
人と接したくないと思ってしまった時点で恐らく、俺の人間的成長は完全に止まるわけだが。
こうしたあらゆるものを拒み続けてまで、何で生きてるんだろ、俺…。
割と最悪気分の朝(低血圧です)。


緊急事態宣言が解除されるとともに、「不要不急」に堪えられなくなって仕事帰り、某大手古書店に寄ってしまった。
俺もあまり他人のことを「緩むのが早い」とか批判的なことはいえない。
今でこそ自身の病との闘いを意識することはなくなったが、そういう意味では40有余年もの間、個人的には「緊急事態宣言下」だったはずで。
だから感情を殺して生きろといわれれば、引き続き難なくこなせる気もしていたし、感情の起伏なんて押し殺してみせると思ってた。
音楽活動を止めてしまった今となっては、そこに昇華することも叶わないので、自身の感情の起伏なんてむしろ、ないに越したことはない、くらいに思う。
しかしこういう風に物語を読みたくなる(泣きたくなる)というのはそれ自体、メンタルが弱っている兆候でもある。
今、この隙だらけの心の中に誰かに入り込まれたら、ひとたまりもなく木っ端みじんだなー俺。
…だから「ひとりになりたい」という自覚症状になっているのか、もしかして。