先日、何気なくいわれたことばを、ずっと忘れられないでいた。

「いいね、(趣味で音楽をやるほどの)余裕があって」
まぁ俺も、「趣味で」などと中途半端な返事を返したからいけないのだが。
そんな俺にしてみても、聞けば聞くほど理不尽なアルバイトの勧誘を、その場で断るための方便でもあったし。
あのとき、なんといい返していればよかったんだろう。
かつて(リバウンドの頃)何度も死にたいと思いながら生きていたことを思えば、今はとにかくやりたいことしかやらない、それが俺の生き方だ。あんたなんかにとやかく言われる筋合いはない・・・といえば、直球すぎるほどの直球返しだが・・・。
考えあぐねた挙句、彼に限らず再び同じような「いいがかり」を受けたら、こう返すことに決めた。
「あなたの生き方に余裕がなくなるように、俺が何かしましたか?」
・・・カドが立つことだけを恐れて、自分の意見を飲み込んでしまったら、いつまでも意見の違いは見えてこないよな。


月に一度の土曜日、代打出勤。これも4月からはスタッフ増強により、俺の出番はなくなる予定だ。
同じように土曜日に出てきて仕事をしている館内の、世代も性別も違うスタッフ同士が、庭の桜の木を毎日みながら、話題にしている。
「あともう少しかね」「お、咲き始めたね」
こうして廊下を行き交いながら、何気なくことばを交わしている。
やはり日本人にとって、不思議な木だ。
こういう一見、意味のないと見える、短いことばのやりとりが、人間同士の潤滑油として大事なことだったりする。今の仕事に就くまで、俺も気付くことはなかったが。
意味のない雑談、というなかれ。
こんなササヤカな交歓から、ヒトとヒトは顔見知りになっていくのだよ。


天気のいい、暖かい日。仕事をするのもはばかられる(をい!)。
今日の来訪者は、午前にデカい会議が一本あったあとは、学生団体の女子(待ち合わせ)がひとりだけ。
自分が飲みたかったので、サーバーにコーヒーを入れてはみたものの、誰も飲まず。
このまま捨てちまうのももったいないのと手持ち無沙汰で、一杯ごちそうすることにした。
お礼代わりということもないだろうが、
「いつも大変ですね、(建物の管理の仕事)」
という、通り一遍のオアイソが返ってきたので、
「いや、別に(見ての通り)暇だよ」
と通り一遍に返す。
同僚がプロジェクトで大量に使った厚紙が余ったので、裏面に昨年の桜の写真を6枚、大伸ばしして、(職権濫用して)飾ってみたんだけど。こういう話題に触れる余裕は、ないわけね。
春休みで帰省中の妹に、後でこのやりとりのハナシをしたら、「今の大学生はコミュニケーション力、ないからねぇ」。
互いに気持ちよく仕事をするための、気の遣い方は誰も教えてくれないもんな。
周囲が見えていない、というか気が回らないのだ。
普段から思ったことを何気なくことばにできていないと、自らの感情を口に出す習慣がついていないと、外的刺激に対して反応する癖がついていないと・・・。そう思い当たると、俺の身の上に起こっている問題と、実はそんな遠い話ではなかったりもする。


その学生達を、退勤時間に追い出すのに梃子摺って、渋谷のヤマハにぎりぎりで駆け込むハメになった。こういう場合もその場でアタマだけは下げるが、所詮これは彼らにとって、学校で習ったから、レベルの行為なんだよな。付き合いが長くなって、さすがに最近、なんとなくわかってきた。