久しぶりの、テツ

この週末は、念願の江戸東京博物館(両国)の特別展「都営の交通100年」展を見に行った。
ツレは、高所恐怖症の俺を、名物の長〜いエスカレーターに乗せたかったらしいが、残念ながら常設展の方ではなく、今日は特設展、会場は1階。
展示内容は、最盛期には200km超の営業距離を誇った都電に対するノスタルジー一色(個人の印象です)。恐らく営業距離は、世界一だったんじゃないだろうか。

便利だから、で電光掲示にしちゃったり、狭い画面に小さい文字がスクロールするくらい必要以上の情報を詰め込んだりしていなかった、のどかな時代。電車のヘッドライト脇に手差しで表示する系統番号板は、なんと41系統分!を一斉展示。広告元の会社ごとに異なった色使いが、圧巻。江戸っ子の粋と通じるものを感じる。

なんといっても今回の目玉展示は、「ヨヘロ1型」の函館からの(一時)帰還。
屋外展示会場に、6000型と一緒に展示されていて、特設展のチケット購入者のみ、会場内に入れる。

大正6〜11年の間に206両もつくられた。関東大震災や、大正14年には芝浦車庫の火災もあって数を減らしたものの生き延びた。それでも昭和5年〜9年の間には現役引退となったが、昭和9年の函館大火の際に50両が、今でいう復興支援のために、函館市電に譲渡された。人に人生あり、電車に物語あり。

時は流れて、そのうちの2両が、写真のドぎついシマシマ模様に衣替え、ササラ電車除雪車)に改造されて21世紀の今日までちゃんと稼動中。今回、除雪出動のない夏に、このうちの1両がこの東京に「里帰り」。もちろん前後の除雪装置は後に設置されたもので、元々はフツーの電車の姿だった。原型は、特設展会場内にモックアップ(ダミー)で復元されており、この展示区画のみ記念撮影が可能(特設展場内は、撮影禁止)で、ササラ電車の方は車内に入れないが、モックアップの方は車内に入ることもできる。
なんとササラ電車の車内天井部分には、当時の内装が残っているそうです。
気になるカタカナ記号の意味は、

  • ヨ:4輪車(今の電車は8輪、ですよねフツー)
  • ヘ:ベスチビュール付き(運転席のガラス窓のことを、当時こういったらしい。わざわざ区分するってことは、逆にガラスなしがあたり前だったわけで)
  • ロ:大正6年

今の電車でいう「モハ」とか「クハ」とかと同様のものなのだが、当時ほかにも、「ヨソ八」、とか「ホヘサ」、とか「ヨテ」、とか「ホト」、とかあったらしい・・・(いちいち解説しませんが・・・昔の記号の付け方って、面白い)。

間近に見ると、結構大きいね。つい床下を覗き込んでしまう気持ちも、わかります(^^;スカートめくり、みたいなもんか・・・
並んで実車展示されている6086号車は、ぐっと新しく(!)昭和24年製造。戦後初の新造車6000型の一員として、6年にわたって290両もつくられたうちの一両。戦後都電を代表する車両といっていいだろう。
前面おでこ部分のカタチからか、「一休さん」のあだ名で親しまれ、つい最近までイベント車として、同型の6152号車が荒川線を走っていた。現在は途中駅のあらかわ遊園前に展示保存されている。荒川線が下を走る飛鳥山公園にも6080号車が保存されているし、他にも神明都電車庫跡公園に6063号車、南大塚公園に6162号車、府中市立交通公園に6191号車など、都内各所で保存されていることからも、都民に親しまれてきた車両だったことがわかる (但し痛み具合が激しかったり、車内に入れないもの多し)。
ちなみに6000に続く数字は、(原則)製造順で、6086号車は、6000型で86番目に製作されたことを表している。
6086号車も路線縮小から逃れるように各営業所を転々としながら、ワンマン化で廃車となる昭和53年までは、荒川線を走っていたものらしい。案内掲示によると、鉄道博物館学芸員だった岸由一郎という方が、個人が所有していたこの電車を、荒川車庫に戻すための「仲人役」となり、平成20年3月に晴れて荒川線の荒川営業所に帰ってきたが、岸氏は同年6月の岩手・宮城内陸地震で被災*1、亡くなられたという。学芸員というと年配の方を想像してしまうが、写真を拝見するとまだまだお若い方だったようだ。

つい都電の話ばかりになってしまうが、他の展示物もとても興味深いもの多数。
例えば都営バスの元祖、フォードT型の「円太郎バス」の実車展示。ジープの荷台を長〜く延ばしたむき出しの荷台に、膝がぶつかるような幅で向かい合わせにこれも長〜いベンチシートが設置してあって、乗客を乗せていたらしい。透明窓部分のない、ただ真っ黒な幌(カーテン)が三方に設置してあるが、これを締め切って走ったら、さぞかし息苦しかったろうに。道路状況が今と比べ物にならないほどよくなかった当時は、主要バス通りといえど砂埃を巻き上げながら走っていたらしく、四輪の横にはブラシを設置(タイヤ側面の泥落とし)することが法律で義務付けられていたんだとか。
新しい地下鉄である都営・大江戸線は、トンネルの断面を小さくして建設コストを抑えたことが知られているが、実は線路の幅はJR在来線よりも広くて、新幹線と同じ、なんてことも、改めて知ったりする(あの小さい車体で新幹線並みにカッとぶ姿を想像すると笑える。車内の乗客はとんでもないことになってる気がするが)。

再び話を都電6000型に戻して、

木造ニス塗りの落ち着いた車内でこうしていると、時間がゆったり流れていく。都電の旧型には乗ったことはないが、そういえば古い電車ってクーラーなんかもちろんついていないし、抵抗器の冷却ファンも回ってなくて、耳を澄ましても発電機の音がかすかにするくらい、思いついたようにコンプレッサーを震わせたり、時折ため息つくようにブレーキのエア音がするくらいで、折り返しの間、静かだったよなぁ。なんだか人間臭く思えたもんだ。
この展示区画には、映画「三丁目の夕日」で使われたセットが復元されていることもあって、このまま走りだしてもおかしくない感じ。

俺ですら、さすがに荒川線以外の都電は乗った経験がないので、こういった機会に都度推測するしかないのだが、本当に後世に「もったいない」結果になってしまったと思う。
今回展示されていた内容は、明治時代から長い時間をかけて、ここに名前すら出てこないたくさんの裏方、現場の方々の苦労を経て整備され、(空気や水のようにあるのが当たり前なものとして)支えられてきた、公共交通の歴史そのものだったわけで。
そういうことは、膨大な資料を介して十分に伝わってくる展示内容だった。
だからこそ、簡単に失くしてはいけないものだった。
モータリゼーションの波が当時、いかに大きいものだったとしても、わずかに「私」を制限してでも、少なくとも今あるもの(交通資源)をどう活用するか、という工夫ができなかったのだろうか、狭い発想しかできなかった当時の判断が、本当に惜しまれる。
富山のライトレールの成功事例*2や、同じ都内の世田谷線*3、そして唯一残った都電・荒川線*4の事例、また長崎や高松では今も市内の公共交通機関として一翼を担っていることと比べるにつけ。

帰宅して気持をやや落ち着けてから、関連書籍を読んでいたところ、都電(市電)が池袋の数駅手間である護国寺までしかきていなかったことで、ターミナル・池袋の発展が新宿・渋谷に比べ大幅に遅れていた、という明治時代の史料にめぐり合った。既に池袋駅に乗り入れていた武蔵野鉄道(今の西武池袋線)が護国寺側から連絡線を設置しようとしたり、市電側に直通運転を持ちかけたりと奔走するのだが、結局昭和11〜13年頃、明治通りの開通と併せて東京市電側が池袋まで延長、池袋からも山手線の内側を市電の乗り継ぎにより都心と直結できることになったのが、今の池袋発展の基礎だったという(武蔵野鉄道は、並行して手がけていた秩父路への新線建設資金繰りに行き詰まり、堤財閥に買収合併、現在の西武鉄道池袋線となる)。
今の感覚でいうと輸送量はバスとそんなに変らないくらいにしか思えないが、当時の人たちにとっては(今の地下鉄ネットワークと同じくらい)重要な「公共」交通機関だったのだ。
欲をいえばそういう擬似体験までできる客観資料・展示があってもよかったかも知れない。

これくらいの事前情報を仕入れてから行くと、博物館も楽しそうでしょ。ホント、近・現代(文明)史って、いろいろ想像力が膨らんで縦横無尽に肉付けできるので、ここまでの拙文が少しでも面白い、と思った方は、ぜひお見逃しなく。
実は、両国にはテツとは全く関係なく、ステキなお店もあるのだが・・・こちらはまた次の機会にご紹介。

*1:あのニュースになった、栗原の温泉宿

*2:JR富山港線が廃止になった際、第3セクター運営方式で市内に路線延長し、低床型路面電車として整備しなおした結果、交通弱者を中心に利用者が増加し、沿線に大型商業施設ができるなど、地域振興にも一役買った事例。

*3:東急電鉄が運行。同じく低床型ライトレール車両を全面導入した。

*4:地元住民の熱心な存続運動と、旧都電の中では元私鉄だった前歴も幸いし、元々路面走行部分が少なかったために、都電で唯一、存続となった。