本当の、バリアフリーとは。

仕事で目の不自由な方と、新宿経由で出先へ行くことになった。
なんと俺が、誘導?!なんかできるのかよ。実際、何の事前レクチャーも受けていない。
8月15日には青山一丁目駅で、盲導犬を連れた男性が線路に転落、死亡する事故があったことが、まだ記憶に新しい。最近の報道ではどういう配慮からなのか、「意識不明の重態」だと氏名などの詳細を知らせてくれないらしく、次の報道が出るまでの間ずっと、「まさか知り合いでは」と気が気ではなかった。幸いにも、知り合いではなかったが。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201608/CK2016081702000136.html
目に不自由がない人のことを「晴眼者(せいがんしゃ)」ということも、初めて知った。
しかし、さすがに天下の新宿駅
しかも朝のラッシュ時に通過せざるを得ないスケジュールで、考えないようにしようと思っていても、どうしても「最悪な事態」が起こったときのことを考えてしまう。
俺はドラムを叩いていたとき、幾度か都内の駅をドラム一式かついで移動、という「不自由」な思いをした経験があるので、駅がどれだけ「バリア」な場所かは思い知っているつもりだった。
今日も同様に、カートに一杯荷物を積んで移動しているわけだが、朝の新宿駅は、俺の想像をはるかに超えていた。
階段でなくとも、ちょっとした段差を超えることがどれだけ困難か。
カートを引いて俺が近づいているのに10cmと動こうとしない若いガードマンは、身体を張って俺を守ろうとしているようには見えなかったので、逆に線路側に避けなければならなくなった。
先導している俺と、目の不自由な相手との間に容赦なく割って入ってくる乗客…。
普段なら何気なく聞き流している「黄色い線の内側へおさがりください」というアナウンスも、立場を違えて聞くととんでもない健常者側の「驕り」であることがわかる。本来、目の不自由な人たちを安全に誘導するはずの点字ブロック、そこが「危険との境界」だといっているわけだ。
というか歩けるもんなら歩いてるわ、「黄色い線の内側」。
俺は怒りで自分を失うようなタイプの人間ではないと思っていたのだが、段々腹が立ってきた俺はついに、すれ違う人たちが人格をもったひとりひとりの人間ではなく、単に行く手を妨害する「モブ」、なぎ倒してでも進むべきものとしか認識できなくなってしまった…。

夕方のラッシュにかかる帰り道は、時間差があって俺ひとりだった。
同じルートを帰ってきたが、朝ほどではないにしても人出は変わらず多く、おまけに入ったJRの改札が運悪くエレベーターもエスカレーターもない場所。身体の不自由な人がこの改札を入ったが最後…完全に蛸壺だ。
せめて改札を入る前に、バリアフリーなルートを知らせる案内図が1枚あったら…。結局力技に頼り、カートを担いで階段を上がってしまった。こうして無事だったからいいようなものの、うっかり転落していたら、俺だけでなく、多くの人たちを巻き込んでしまっていたことだろう。
毎朝どこかしらで起こっている人身事故もなんだか、こんな無関心が元の「人災」な気がしてきた。
点字を備えた運賃表や構内案内図は、「晴眼者」の通行の邪魔にならないような、とても見つけられないようなところにひっそりとあって、乗車位置を示す点字は電車のドアの上だ。目の不自由な人がまずこの高さのものを手探りで探すことなどありえない、という。

一方、同じJRだが帰りついた某駅のエレベータ内には、バリアフリーで乗り換えできるルートを示した図がちゃんと貼ってあるのを発見した。
早くこれくらい当たり前なことになるといいな、と思う。