音楽からの「自由」。

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このところ、ゴリゴリのロックばかりを好んで聴いている。


バンド活動の反動…とかいうとシャレになんない気がするが、バンドはバンドでもアカペラ・バンドだったから仕方ない。
そういえば最近はほとんどの大学にアカペラ・サークルなるものがあるらしく、「社交性や協調性がなかったから合唱部を飛び出しちゃいました」、という俺のような輩から見ると隔世の感がある。
俺はツルめないからアカペラにはみ出しちゃった人間を自負しているのだが、だからそもそもアカペラやっててツルみたがるって、意味わかんない。何をしているのか全くイメージわかないんだが、「軽音楽部」のフォーマット、みたいなもんなのだろうか。バンドの複合体? それでお互いの演奏におべんちゃらいいあったりすんの?

なんかキモい(笑)。

社会人サークルというのも散見されるようになってきて、試みにいくつかネットで検索してみたんだが、ほとんどのところで年齢制限があるのね(因みに俺は、既に対象年齢外)。
学生と違って「婚活」目的を明確に打ち出しているようにも思え、「この世界」にもリア充どもが進出してきちゃったってことか(笑)。

映画のワンシーンでよく、主人公がギターをかき鳴らすスローモーションに、演奏内容と無関係のゆったりとしたBGMを被せる「回想シーン表現」があるが、つまり楽器演奏というのは演奏音と関係なくその所作だけでもパフォーマンスが成立してしまうということで、うらやましい。
歌だとこうはいかない。大変、不憫だ。
長いこと歌ってきたものの元々、楽器バンドへの憧れも強くて、ちょこちょこ関わってきた少ない経験値からなんとか楽器バンド的要素を歌にも持ち込めないかという意識を持ち続けてきた。
以前少し触れた、楽譜にベースはルート音しか書かないというのもこの一環だったし、楽譜に書いてあることを一旦音にしてみてしっくりこない部分はどんどん自分なりの解釈で直したり加えたりもする。
それでも、コーラスではとかく決まり事が多い。そりゃそーだ。音を違えてしまうのはもちろん論外だが、うっかりでもバリトンがテナーよりも高い音を歌っちゃったりしたら「下剋上」、ハーモニーの「前提」が崩壊してしまう。
かのTake6の楽譜出版の話があったとき耳にした噂話の類だが、一番当惑したのが当のご本人たちだったらしい。実はあれだけ難解なハーモニーを彼らはほぼ即興で作り上げてきたらしく、改めて楽譜に起こすとなると誰一人ちゃんと覚えていなかった、とか。
どこまで本当の話かは不明だが、コーラスでここまで(演奏者側の)自由度が高いことは稀有で…っつーかあんなの即興で、できるかっ!
…というのが俺も含めた凡人の反応だろう。
そもそも彼らには宗教的なバックボーンがあって、それこそ物心ついたころから「聖歌隊」を聞いたり自身で演奏経験を積んだりしてきたから、こういう芸当もできるわけだ。楽器バンドでも有名なドラマーがマーチングバンド出身、という話も多く耳にするが、残念ながら日本にはまだまだこれほどの文化的背景も歴史もないから、こういうことが難なくできる人がいたとしたら、個人の努力の賜物、ということになる。

もうひとつ。楽器バンドだと当然ながらお互いの楽器が違うので、演奏方法に立ち入った指示・指導ができない。
ギターのヤツはベースの弾き方に対して、同じ弦楽器としては何か教えることはできるかも知れないが、ベースがドラムに対して叩き方そのものの練習方法を考案してあげることはできないので、練習の場ではどうしても「こういうイメージの音が欲しい」といった伝え方に留まる。
指摘した側は信じて待つ(笑)ことしかできないし、いわれた側の楽器担当者は自宅に持ち帰って(笑)試行錯誤する羽目に。
でも音楽を、音を創ることって、本来こういう地味~な作業の繰り返しのような気もする。

楽譜を通して与えられるものに従順であることに留まらず、それを音として聴いたときに自分の内面から湧き出してくるものに対して、素直でいたい。

しかし、アカペラの場合は「楽器が同じ」(声)なので、これはこれでまたいろんなことが起こる。
あ、だからかー。ことさらに同調圧力を感じる場面が多いのは(今さらっ?)。

年末年始休みの「東京推し」が、キモい(僻)。
駅張りのポスター、ラジオ、テレビ(観てないけど)のCM…。
俺もまぁ東京を離れたとはいえ、周辺地域でその「経済効果」のおこぼれに預かっている身ではあるのだが。
何しろこれだけ人が集まるところには、モノもカネも集まる。何らかのイベントを商業的に仕掛けるにしても、やはりここだろう。恐らく国内だけでなく世界中から、様々な分野の「一流」を目指す人たちが集まって日々しのぎを削っている。

だから、東京には何でもある。

でもだから簡単に、自分を見失う。

少し距離を置いてみて、初めて気づいた、かも。
ということで最近の俺は、東京での買い物や物見遊山、「東京での集まり」や東京の情報すら、務めて避ける傾向にある。