雨の、日曜日。

9時半には目が覚めてしまった。
習志野は、曇り時々雨。
隣室工事、さすがに今日は、県からの週末自粛要請もあってか「休工日」にしたらしい*1
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窓を開けると昨日掃除したはずのベランダに、隣室のベランダから廃材やらゴミやらが吹き溜まってしまっており、はっきりしない天気とともに朝から気分がゲンナリする。

自宅で作業できる仕事を持ち帰ってみてもいるのだが、別に締め切りがあるものでないこともあり、自宅で作業するのは何だか気が進まない。

30分ほどずらして足を運んだスーパーは、ちょっとピークを外してみただけで、このところ昼どきは爆発的になっているレジ行列がガラガラになっていた。
やはり人間、考えることは似たり寄ったりらしく、昼食ついでに夕飯の買い出し、なのだろう。
人はどこか、群衆の中にいないと不安になる、というのもあるかも知れない。
しかしスーパーのレジでのあの行列はそれ自体、感染リスクを上げている気がするので、このところの俺は意図的に時間をずらすことにしている。
今のところ、焦って並ばないと入手できない、といったものは思いつかないし今のところ不便も感じたことはない。
日本の物流は本当に優秀で、たくさんの意識の高い人たちに支えられていると思う。

「いつもありがとうございます」
とレジのベテランおばさん。
いやいやこちらこそ。
こんな騒動のさなか、俺たちと同じように仕事休んで部屋にいたくても、平静を装って生活必需品を販売してくれているあなたたちにこそ、心からありがとう。

日常の、それまで気づかなかったいちいちのことに、確かに「人の手」があったことに気づかされる毎日だ。

どこまで自身の想像力を、動員できるだろうか。
朝、ゴミを決まった日の決まった集積場に出しておけばいつの間にか回収してくれている。
酒も食べ物も、なくなったらスーパーやコンビニに行けば手に入れることができる。
電車もバスもガラガラではあるが、平常運行中だ。
常備薬がなくなって医者に行けば、看護師の方々が甲斐甲斐しく走り回っていて、俺は処方箋をもらって薬局へ行く。
電気もガスも水道も、滞りなく供給されている。新たに創ることよりむしろ、維持していくことに手がかかるはず。
テレビ*2やラジオ、ネット配信のニュース・コンテンツも、発信・配信を続ける裏には多くの人たちが関わっている。
自身が働いて得た給与で暮らしていることはもちろんだが、ちょっと思い巡らしただけでもたくさんの人たちに支えられて「生活」が成り立っている。
自身の心身の弱さを棚上げにすれば、本当は俺も、そういう仕事に就きたかったのかもなぁ。
彼らの「公益性」に比べたら俺の仕事やアノ職場内だけでの評価なんて、どう考えても二の次でよい。


俺自身は今や、若いから発症しない、という説とその真偽の程には実感が湧かない年齢。
かといって目に見えないものに違いはなく、今のところは幸い身近に感染者が出ていないこともあって、対症療法しかない、運が悪ければ死を招く病、という実感がもてていない。
もしも、俺自身が既に罹患者だったとしたら。
もしも、年老いた両親にうつしていたら。すでに誰かにうつされていたら。
結婚式を予定していた人がいる、出産予定の人がいる、すでに幼い子どもがいて幼稚園や学校が始まらない中、家族でつましく暮らしている人がいる、急に仕事がなくなってしまった人がいる…。
どういう生活の局面・ステージにいて、その人たちの身に降りかかるかも知れないあらゆる可能性。
病院をたらい回しにされた挙句、検査すらしてもらえないかも知れない現状で。
例えば利己心を剥き出しにして、俺や俺の知人を先に検査してくれ、といえたりするんだろうか。
そして将来この騒動が収まったとして、具体的に顔を思い描ける現・元同僚や親しい友人、俺にとって数少ない大切な人たち、訳あって袂を分かった人たち…そのうちの誰かが、不意に還らぬ人になってしまっていた場合…。

…仮定の話にしても、我ながら荒唐無稽、突飛すぎる気もするんだが。
少しでも身近なものとして、今から「実感」しておかなければならない。
直感的に、そんな気がしている。
数十時間ぶりに部屋から出たせいかスーパーからの帰り道では、俺の頭の中はずっとそんな思いに捉われていた。

雨が降っていたせいか、いつもは聞き取れないことが多い市の防災無線も、いつもよりもはっきりと聞き取ることができた。
自家用車の往来も、目に見えて減っているようだ。

*1:先週は日曜日も工事していた

*2:俺は見ていないが