自戒。

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一昨年の武甲山。山は逃げたりしないから。しないよ、しないよね…。

今週の、“コロナ周り”。


腕時計が遅れるようになってしまい、先週はついにこの遅れに気づかなかったせいで、お気に入りのラジオ番組冒頭を聴き損ねてしまった。
つけていると無意識にアテにして見てしまうので持ち歩くことをやめてしまったが、1,000円程度の安物だったにしては気に入っており、決定的な故障じゃなければいいのだが。試みに電池交換をしようにも店が「不要不急」で全て閉まっている。
仕方ないので時計のない場所では、いちいち携帯電話を取り出して時刻を確認しているが、思いのほか不便で仕方ない。

何の対策もないままスタジオ収録(!)をした15(水)から2週間が経過し、どうやらこの間、感染の兆候も発症もなかったので、無事にやり過ごしたと思ってよさそうだ。
で、いったい何やってる人なんだ、俺は?

20(月)に初の試みとして行なった在宅作業は、翌日出勤したらその「後始末」に却って時間がかかってしまった。
PCを使ったデータ作業とはいえ、まだ「流れ」ができていない上に、何か「帳票」への記録方法そのものを変えなければならなくなるかも知れない。
どのデータが最新かわからなくなってしまう混乱事態は、避けなければならない。

PCの壁紙画像は、満開の桜もさすがに季節外れになったので、大量の画像データ・サムネイルから直感で選んだら偶然、去年の今頃の、武甲山の大写し画像だった。
あぁ~、秩父行きてぇ~!
の、禁断症状。
そういえば恒例・正月2日の秩父詣、今年は実家で発熱、寝込んでて行けなかったんだった。
今はこんな状況で行けない、となるとなおさら(いや、「終息宣言」出るまで行かないけどね)。


隣の部署も自宅作業に切り替えたために、「正規雇用さま」率が一気に下がった事務所は静かで、こちらの都合を無視したチャチャが入らないので仕事が捗る。
これで時短分の帳尻が合わせられればラッキー。

先日夜のニュースで政府の専門家会議メンバーが記者会見しており、気になっていた「人的接触8割減」の意味合いについての説明があった。
「2m以内で向かい合ったまま、30分」というのが、最も近しく速い感染事例として確認されていることから、これをひとつの数値的目安と考える。仮に1日に10人とこういう接触があるとしたら、「1日2人までにしてください」、ということだそうだ。
仲睦まじい「正規雇用さま」たちのランチタイムは、この基準に照らしてもアウトなんじゃ…。

まだ4月だというのにこのところ、平日は午後から夏のスコールのような豪雨、皮肉なことに外出できない週末快晴、というパターンが多い。
この夏の猛暑(と記録的暴風雨)、の予兆なのだろうか。

遅くなりがちな週末休みの昼食は外気吸入を兼ねて、つい近所の公園へ行ってしまう。
騒動前と何も変わらない光景にはほっとするものの、防災無線からの「不要不急の外出自粛」の呼びかけが重なると、なかなかシュールな違和感も。
他人事ながら、今あのボールの当たり所が悪くて怪我でもしたら、あるいは転倒して足を捻りでもしたら、病院に行けるのだろうか、病院は受け入れてくれるんだろうか、などと心配になってしまう。

数日前には防災無線放送のパターンが変わった、と思ったら…
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…え、こいつらわざわざ、自家用車で来てんの?

同じ頃、江の島海岸沿いが観光客の自家用車で大渋滞、という映像が報道されるようになった。市営駐車場が閉鎖になっているため、往き場をなくした車が溢れかえっているんだという。数日後には何が功を奏したか一転、ガラガラになったというのだが、俺にはヒトの考え方がそう簡単に変わるとも思えないので、恐らく場所が変わっただけではなかろうか。

GW明けのオーバーシュートが確定シマシタ。

それにつけても、外出自粛に関して俺自身の自己規範では「公共交通機関を使った移動はNG」だったのだが、自家用車での移動は所有していない俺にとっては思いもつかないことのひとつだった。元々、公共交通機関からいろんな意味で「自由」になるための道具だもんなぁ。
街から遠く離れた場所だけでなく、街中でもちょっと中心街から離れたところに住んでいれば、自動車での移動は「生活」維持機能そのものだろうし、距離感覚だけが「自己規範」だったら、観光地までだって大した距離じゃなかったし、と思っちゃったとしても、わからなくはない。
都道府県境をまたいでの移動はご遠慮ください」といういい方しか、ないんだろうなやっぱり。

ファーストフード・チェーンが全国で店内飲食スペースを閉鎖した。
駅からはいつの間にかゴミ箱が消えたなーと思っていたら某コンビニが「トイレとゴミ箱を閉鎖」のニュース。
トイレはわかるがゴミ箱は…無造作にマスクを捨てられることへの危機対応だと聞いて、なるほどーってなった。
まだまだ予想外のできごとが起こる。
ますます「自分の頭で」考えないと、どこかしらにご迷惑をかけることになる。
恐らく日頃から考え抜いているつもりでも、一旦何か事あれば「十人が十人」、真っ先にご迷惑をおかけすることになるのがやっぱり医療関係者だろう。
「店が開いているから」来ちゃった…っていうパ〇ンカスどもは論外、すでにやっぱり「ビョーキ」だと思うのだが、そういうヤツらに限って実は、発症が疑われる症状が出たら我先に検査しろといい出しかねない。一方でエッセンシャル・ワークに黙々と従事されてきた方々の感染治療がそれで遅れるようなことがあったら、個人的心情としては「好き勝手に遊んで感染しちゃったパ〇ンカスどもなんか、後回し」ってなると思うよなぁやっぱり。
因みに「来ちゃった」が許されるのは20歳代までだぞジーサン(笑)。

自分が(無症状の)保菌者として扱われるのは不本意ですかそーですか。

現に自身に症状が出ていてつらい、ということでもなければそういった想像もしづらいし、「誰かにうつしてしまうのでは」という危機意識を維持し続けるのはさらに難しいことだろう。
未だ予防ワクチンや特効薬のない状況では、「このままではいつか自らが感染・発症する」恐怖の方がイメージしやすい。少なくとも俺にとっては。
同じくらい想像を巡らせやすいのは、毎日具体的に報じられている医療現場のひっ迫状況なんじゃないかと思う。
検査数を増やすといったってそもそも検査に携われる人は限られているし、医療現場での人員増強をといったって医療現場のソレ、ましてや感染症の現場は誰にでも務まるような仕事ではない。
まずは高い専門性と経験が要求される「この人」たちを、我々が守っていかないと。
現に別の病気や怪我で緊急性が低いと判断された人たちは、退院を余儀なくされたり治療そのものが中断し始めたりしている。
「助けてくれる人」が足りない、あるいはいざというときにいなくなってしまう。
そういう発想力こそが、必要。

だからなのか、「医療関係者に、感謝のことば」といったニュースが増えてきている。
感情表現がなにかと大きな某国ではなんと、米軍が(あ!)「曲芸飛行」まで。
何か改めてこういう「行為」で示されると(俺は医療関係者ではないが)、その場は確かに「いい話じゃん」と思った直後に、なんだか違和感。
留め切れない感謝の思いを様々な形で表現しようと模索すること自体は尊いが、誰かがすでにやったのと同じ方法だと(エンター的には)「二番煎じ」感が拭えないのはなぜなんだろう。やはり最初に「動いた人」が偉いな。
俺自身は、こういう感情はひとり心のうちに秘めておいて、日頃から具体的な態度で示せたらいいんじゃないかと。
そう思ってしまう俺は「日本人」が過ぎるのか。
伝わらないと意味ないよな、確かに。
だが、ひとりひとりの自発的な思いが集まって、結果として社会全体がいい方向に変わっていけるのならまだしも、今のところいくらことばを紡いだところで戦場のような「現場」が少しでもラクになるわけでもないし。
社会全体がそれを「是」として、感謝しない、できないヤツは…みたいな同調圧力になってくるのもなんだか息苦しいし、なにより気持ち悪い。
相当ねじれてるな~、俺(ついに人の善意が信じられない、という方向に…)。

事態の受け止め方には思っている以上の個人差があって、神経質に暮らそうと思ったら実はキリがない。
恐怖の方がイメージしやすいからか、ウチの部署でも神経質に受け止めてしまい、かなりナーバスになって出勤できなくなってしまったスタッフがひとりいる。
俺は務めて鈍感に考えるようにしている方だが、何より医療現場同等の無菌状態を目指すとしたら、防疫の専門的知識とともに膨大なカネ、というヤツが必要なのだよ。どちらも俺に限っては絶望的だ(笑)。
それよりもそろそろ、
「いろんな細菌がいるパワー・バランスが大切」
「神経質になりすぎて無菌状態にすると、コロナウイルスだけを爆発増殖させてしまう」
みたいな学説(?)が出てくる頃合いじゃあないかと、若干呑気なことを考えてたりする。
本当のところはどうなんだろう。誰か詳しい人、いない?

パニック映画にありがちな題材ではあるが。
今回のような「平時ならざる事態」というのは、人の本性をあぶり出す恰好の機会になる。
全てを放り出して真っ先に自分だけ「逃げ出す」人。
それと気づかず、声高に自分だけに特別待遇を要求する人。

今週は、ある程度まとまった量になったので前社長宅に郵便の転送をしたら、そのお礼の電話を奥様からいただいてしまい、却って恐縮してしまったのだが、さりげないことばの端々にこんな時期ならではのお気遣いが感じられた。
着実に積み上げてきた人生経験から、大切な人たちに思いを馳せる方もいらっしゃるんだな、と。
俺も「何事にも動じない人」でありたいなどとは思っていないが、そんななかで少しでも「有意義なトシの取り方」は、したいもんだと思ったできごとだった。