身軽さ。

ラジオの交通情報もこのところの自粛ムードのせいか、「目立った渋滞はありません」「順調に流れています」というアナウンスが多く、かといって放送枠は決まっているだろうし、何もなければなかったで、ことばで時間をかせがなければならないのもそれはそれで大変なんだろうなぁと思ったり。
気になったのは、「新型肺炎感染拡大防止のため、ETCのみとなっている料金所があります。詳しくはHPをご覧ください」というアナウンスで、俺は車を運転しない人間なのでよくわからないのだが、ETCってもうそんなに普及しているものなのか。うっかりそれと知らずに高速道路に乗ろうとして入った料金所が無人で入れなかったら、果たして引き返せるもんなのだろうか…気になって眠れない(地下鉄はどこから入れるか知ってるけど)。
今回、画像はありません。


もう10年以上も前のことだが某役所に務めてたとき、窓口に来る人たちはまだデジタルデバイドな人たちが多くて、「ホームページをご覧ください」などとはとてもいえない空気だったもんだ。
今般の特別定額給付金のように国が全国民にネット端末を配布した、わけでもないのに、いつの間にかパソコンやスマホタブレットを国民全員が持っているのが当たり前、みたいなことになっちゃってるのがすごく気持ち悪い。俺自身がテレビを見なくなってからは、なおさらそう思う。
その特別定額給付金をめぐっては、高知市で銀行口座がない人への定額給付金支給申請除外しちゃってたとかで。
PCR検査は一部自治体で「ドライブスルー方式」が導入されていて、海外ではコンサートすらもそういう形態で行われるところが増えているとか。いずれもすでに、自家用車を持ってることが前提(自転車で行っても、入れてくれるのかな?)。

国民でいるためだけに(国民扱いしてもらえるためだけに)、持っていなければならないものが増えすぎだ。
一方、市民側では一生懸命に(?)「断捨離」とかやってるわけだけど。
こうして知らず知らずのうちに出来上がる「国民像」からはみ出しちゃったら、その先はいったいどんなことになるんだろう。
「新しい生活様式」といういい回しをタテに、結局新しい便利なものをどんどん「買って」おかないと、気づいたらいつの間にか住所不定、みたいな流れになっていなければいいんだけど。

そんな程度に平和が続いてきたので、音楽活動を取り巻く環境もそれと気づかず「バブル」だったんだろうな、とこのところ思う。
俺たちの世代が偶然そういう年齢になった、ということもあるだろうけれど、「平成」は結果的に同世代の友人・知人たちの間でも起業や独立が相次いでいたし、経済的にもデコボコはあったにしても、比較的安定した時間が続いていたんだろう。
マチュア音楽界(そんなのあるのかどうか知らないが)でも、バンド組んでそれなりの時間が経って、人前に出せる最低限度の演奏レベルさえ満たしていれば、武道館とかいいださない限り、あの憧れのアーティストが演奏したライブハウスで演奏、という夢までも叶えられた時代。もちろんそれ相応の努力は必要ながらも。
その「バブル」がコロナ騒動で一気に弾けて、じゃあ自分たちの演奏は、自分たちのバンドは、何を残そうか? 何を残せる?
かつて聴きにきてくださったお客さんたちの心に。
これから新たに聴きにきてくださるであろうお客さんたちに。
音を紡ぐこと、それ自体も今よりずっと研ぎ澄まして、「自分たちの音」というものを創っていく必要があるけれど、それ以外の「何か」が必要になってくるかもしれない。
誰かと同じことをやって、同じところを目指していたのではもう、立ち行かなくなるかも知れない。
そんなことを真剣に考えるときが来たんじゃないかという気がしている。
とはいえしばらくは先人たちの模倣に始まって、様々な試行錯誤、トライ&エラーが続くんだろうけれど。
「バンドコンセプトの確立」といったらありきたりだが、今、俺が考えているのはもう少し「根源的」なもの。
自分がこのスタイルで音楽を始めたそもそもの理由、みたいな。
「好き」という気持ちの正体が何だったのか。

ここ当面の間、人前での生演奏は叶いそうになく、インターネットの活用も含めた様々なツールの使用が検討され続けている。
機材は目的を叶えるための「道具」に過ぎないので、ここでもやはり、目的をはっきりと設定する必要がある。
令和の世の今でも、高価な楽器を手に入れるために断食(?)、なんて話はザラにあるが、それだって本来は高い楽器が欲しいんじゃなく、出したい音を出せる楽器が高かった、ということのはずだ。
現状が現状だしこの辺の話は非常にセンシティブで、異論も多いだろう。
しかし、
いい機材、高価な機械を手に入れられた人たちだけが生き残った、というのではあまりにも夢がない。
と少なくとも俺は思う。
とりわけアカペラ(いわゆるストリートコーナー・シンフォニー)という演奏形態は、楽器を買えなかった貧困層が、自身で演奏することへの思いやまず声だけで始めた、という身軽さが起源の表現方法なだけに、今さら始めるにあたってこうこうこれだけの機材が必要になります、みたいな面倒なことにならなきゃいいんだけど。ステージ衣装のときにも、似たようなことを感じたが。
俺自身が気軽に始められたおかげで今まで歌い続けられたように、自分も始めてみようかな、という憧れの気持ちの持っていきようがなくなるほどハードルが上がっちゃうようなことは、アカペラに限らず音楽界全体としてもマイナス要因だろう。
もっとも、それはもはや「アカペラ」ではなく全く新しいスタイルの音楽が生まれていた、ということでもあるかも知れない。
音楽を身体表現と捉えている限りにおいて、「電気が止まっちゃったら演れない」ものに俺の興味がないことだけは、いまさらながらはっきりした。
ボールひとつで、場合によってはボールすらなくても、貧民街の片隅でひとり無心に蹴り続けた結果、世界的な選手になった、というサッカー少年の話のように、人間の創造力には、持てる者、持たざる者の垣根なんか飛び越える力があるんだと信じたい。
…まぁ歌うの辞めちゃったヤツがこんなこといってても、そもそも説得力が全くないんですけどね。
というわけで「無伴奏ならくがき」も、本稿をもちまして一応の最終回

久しぶりに行った整体院の院長と、そんな話になってたわけだが。
もっともエイちゃん信者の院長と、音楽バブルを話題にしたい俺のせめぎあいが先ほどから続いており、あまり噛み合っている感じがしない(笑)。

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さすが第一パンさん、よくわかってらっしゃる。 専門店も含めて「サックリ感が」とかいってるヤツらは絶対、平成生まれだ。 やっぱりメロンパンは、歯にくっつくようなヤツじゃないとな。