意識変革。

このところ何につけても、気が短くなっている
仕事でもプライベートでも、やたらめったら八つ当たりだ。

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なんかほっこりした。


先日の件は結局、「次の段取り」の提示のないまま、期限をタテに接収された。
お互いの信頼関係の元、職務上のやり取りをする、という状況には程遠い。
こういうやり方を繰り返される限り、少なくとも俺は信頼申し上げることはできないので、「次の段取り」については期限がどうであろうがこちらからは今後一切、催促しないことにした。
なけなしの責任感がまた、消えた。
もはや俺が背負うスジのものではなく、接収した側にあるという認識。
なに、この敗北感…。

それにつけてもコロナ禍で、自宅にいる時間が増えて、当然酒量も増えた。
耳は四六時中ヘッドフォンで塞いで爆音を流していないと、俺から何かが流れ出てしまうようで。
かと思うと時折、誰も読まないような長い文章にして吐き出さないと、人間の形を留めていられないような気になる。
これも外出自粛生活の影響、なんだろうか。
当座必死になって自分の気を逸らすことでも見つけないと、近いうちメンタル的に死ぬな俺。
だからなのか、年に1回あるかないかの猛烈な活字媒体渇望の状況。
そうはいいながら漫画に手を出してたりしたわけだが、ここ数日で嗜好が文庫本小説に移行して、本格的に活字依存症になったようだ。
少なくともインプットとアウトプットのバランスが不安定、ということだけは認めざるを得ない。

自分なりの「新しい生活様式」も、すっかり定着してきた感があるが。
寝起き時は、洗顔の際に必ずうがい。
起床時間は変えていないが毎朝、出勤前に検温をするようになったので乗れる電車は1本遅くなった。
通勤電車では何があっても、たとえ遅刻しようが座ることにしているが、平日昼間や休日のガラガラ電車での移動であっても、立つときは手すりつり革は使わなくなった。バスという交通機関は、幸いもう数か月も使わずに済んでいる。
全員がたとえマスクを着用していようが、饒舌な「通勤仲間たち」に遭遇したときは躊躇なく席を移動する。
エレベーターを使わなくなった。
まめに手洗いするようになったが、最近は手に石鹸をつけたら水栓も洗うようになった。
引き戸は取っ手を掴まない。扉は少々行儀悪く見えちゃうが、押せる場合は足で開ける*1
トイレの際、洋式便器にはフタがついていれば、必ず流す前に閉める。
「消毒」の意味合いからも、洗濯用粉洗剤をちゃんと計って使うようになった。

一方、マスク着用による防御効果については相変わらず信じていない、というのが私説だ。
従ってひとりでいるときには極力、着用しないことにしている。
抗体検査の結果は0.1%だったそうで、現状真に恐れるべきは感染者に出遭う可能性より、感染したら治療法がないことだろう。
肝心の防御効果よりもぶっちゃけ、我慢してマスクを着用している人たちからの視線が鬱陶しいためだけに、外出する度に着用しなければならないというのも同調圧力としか感じられないので、買い物すら面倒くさくなり、外出機会も減った。
その、日用必需品の買い物に出かけても、明らかに「ジジババ・ストリームアタック」な時間帯に当たってしまった場合は出直すまたは別のスーパーに行くのが億劫ではなくなった。

元々神経質、というか几帳面な部分があったのだが、これ以上意識すると何もできなくなりそうだ。
ここまで神経質にやる必要があるのか、もしくはまだまだ全然衛生意識としては足らないのか、素人の俺にわかるはずもないが、今のところ自分の頭で考えて導き出したこと、としてなんとか自分を納得させている。

新型肺炎でも第二波があるかも知れないし、今後ウイルス禍の危険は恐らくコロナだけではない。
せっかく100年に一度の経験だったので、「戻りたい」じゃなく、「戻れないかも知れない」生活を想定しておくべきだと思っていたのだが。
通勤電車の混雑はいつの間にか元通りになってるし。
スーパーでは家族連れでの和気あいあいとした買い物風景。
「最小人数でのお買い物を」、店内アナウンスなどどこ吹く風。
ソーシャルディスタンスとかで絶滅するかと思われていた相合傘も、そこかしこで見られる学生街。
「幸せな人たち」は何をしてても結局幸せだ。
なぜならそれが、「幸せ」ということだから。

俺には、押しのけられてる感しかない(所詮八つ当たり、ですけどね)。
まぁだいたいが、同じアプリを使っていないと繋がれない、などという状況だ今の世の中。
もっとも俺の場合は問題の次元が全然異なっていて、そもそも「誰とも繋がらずに暮らしたい」と思ってしまっているのは、なぜなんだろう。
職場だって、お友だちをつくるために通う場ではない。

そんな我が社でも遅まきながら、来月からはいよいよ通常勤務体制に戻す検討が始まったらしい。
俺の仕事は、繁忙期でない限り最大「週3日」にまで圧縮できることを、自分自身に実証する結果となった。
もっとも、福祉作業所の性質が色濃い我が社としては、視覚障害のあるスタッフの多くは在宅作業というわけにはいかないし、彼らが現場仕事に通勤してきている限り、その介助の役回りも兼ねるので、ある程度は出勤することも仕事のうち、ということになる。
この「役回り」に手を取られない環境だと、思いのほか自身の仕事が捗っちゃう、という手ごたえにもなっちゃったわけだが。

コロナ禍があぶり出してしまった社会の様々なレベルでの構造欠陥。
いずれにしろ、選挙を控えたこの時期なおさら、感染者数の都知事発表は信じられないし、会社はやっぱり一兵卒を護ってなんかくれない、自衛を続けるしかなさそうだ。
新型肺炎に限らないが今後、仮にそれと疑う症状が出たとしても、働いた分しか収入がない以上はうっかり医者にかかって想定外の出費にみまわれる可能性を思ったら、何もなかった顔をして会社に行くよ。
そんな風に考えているヤツも、恐らく俺だけじゃなかろう。
人件費を抑えた会社運営ってのはつまり、そういうリスクを常に抱えているってことだ。
今の上司が来る前、ほんの数年前のことだが、インフルエンザを疑う症状が出たので自己判断で欠勤したら、同時期にインフル陽性だったのを圧して出勤してきちゃった職員を俺に対して称賛してた管理職を知っているが、そんな時代遅れな「昭和的根性論」でアタマ固まっちゃってるヤツばかりだしな、相変わらず。

意識の変革は、人の価値観を変えるということは、これだけ大きな出来事を経た後であっても容易なことではないらしい。

*1:両手がリバウンドで使えなかったときからの癖が戻っただけだが