展覧会の絵。

前日までは確かに「明日から7月」と、ずっと頭の中で繰り返して覚悟していたはずなのだが、いざ一晩明けるとすっかり忘れていて、コンビニで昼食を買ったらレジ袋が有料になっていた1日。

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雨、ですねぇ。


会社用カバンにはいつもトートバッグが入ってはいるが、ちょっとした買い物にはデカすぎる。
仕事帰りには近所の100円ローソンに寄ったところ、入り口付近のレイアウトが妙にすっきりしてしまい、壁際に「袋詰めはセルフでお願いします」とあって長机が新設されていた。
だったらスーパーと同じ流れにすればいいようなものだが、コンビニの通常の流れでカゴはレジ打ちが終わると回収されてしまうので、レジから長机までは、買ったばかりの商品を両手一杯に抱えて落とさないよう気遣いながら、店内を歩くことになる…何か不便だ。
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展覧会の絵」。
ロシアの(アル中!)作曲家、ムソルグスキーのこの組曲に出会ったのは、映画館で偶然出会った手塚治虫さんの実験アニメ。初めてちゃんと全曲を聴いたのは、高校の音楽の授業のときだったか。映像から入れたのは運がよかった、ある意味とっつきやすかったかも知れない。
一時はピアノ譜を買って自分で弾く、までに夢中になったものだが、無知というのは恐ろしいもので。市販楽譜は帯の色で難易度が示されていたことを全く知らず、「最高難易度」の色だったとか(確か紫色っぽかったような…)。そんな楽譜を、バンドをやっていたとはいえ光画部の俺が持ち歩いていたもんだから、当時ピアノを「正式に」習っていた同級生とりわけ女子たちが色めき立ったわけだが、もちろん全曲通して弾ければの話("プロムナード"だけなら、そんなに難しくないよ)。


当時限りなく底辺校に近かった自由な高校の中で、音楽の授業の毎回冒頭数分、指名された人が「授業担当」になることがあって、俺は当時コピーバンドをやっていたCasiopeaの曲が音楽室の高価なオーディオ機器から流れたらさぞ痛快だろうと、「亡き王女のためのパヴァーヌ」の原曲を探してきて両方の対比をする「授業」をでっち上げてみた。まだCDなんてなくて、レコードだったが。
この組曲展覧会の絵」も、別に意識して集めていたわけではないがいつの間にか、ピアノの原曲とモーリス・ラヴェルによるオーケストラ編曲版、JAZZならハッピー・トコさんのCD*1を持っていて、今回ROCKバージョンのEL&P
今や耳新しいとはいえないシンセサイザーの音も、アルバム発表の1971年当時は音源装置部分が今のようにキーボードに組み込める大きさだったとは思えず*2、そのときの客席での衝撃を想像してみる…。
って、また音楽の授業でもやるつもりかよ、全く進歩してねぇのな俺(全曲流してたら授業枠に入らんよ)。

PICTURES AT AN EXHIBIT

PICTURES AT AN EXHIBIT

このCDを買うきっかけになった「さよならピアノソナタ*3の方は、ようやくスピンオフな内容の最終巻「encore piece」に到達した。
毎話、自身の心が掻きむしられるような感じは、某レビューにちゃんと「忠告」してくれている人がいたのに読み始めてしまった自分が悪い(笑)…もちろん読んだことを後悔するようなものではなく。
「空想の世界の住人たち」くらい、いっそサザエさん方式でいいから永遠に高校生でいさせて欲しかったなぁ。作者としてもこれらの登場人物たちに、一旦けじめをつけたかったということなのだろうか。
決してこの作品そのものへの評価、価値は揺るがない。あくまでも受け取る側である俺の、気持の方の問題…。

ここまでの巻と比較すると、短編構成だったからなのか含蓄、というか作者からの人生訓メッセージめいた内容が各話内で簡潔に提示されていて、といって後味が悪いというわけでは決してなく、なんだか親しい友人に説教くらったみたいな心地よい気分で、すっと話が頭に入ってしまう。無性に昔の同級生(匠のマスターあたり)と会って話したくなってしまった(俺にしては珍しい反応)。こういう込み入った感情の話はさすがに、メールや電話で済ませるというわけにはいかないが、さりとてまだここしばらく、県境を越えての移動はできそうもない。
俺にもいつかそんな日が、本当に?…多分もう、泣いたくらいではどうにもならない。
必要以上に感情を刺激されると、止まっていた俺の心の中の「時計」がうっかり動き出してしまいそうな、底知れない恐怖。
そうなったら自分がバラバラに壊れてしまいそうだ。
デカい音を鳴らした「結界」の中に身を置いて、砕けてしまいそうな身体を繋ぎとめておかなければ。
それでもより大きく感情が振れそうなものを、心のどこかで渇望してしまっている今の俺。

残すところ、あとたったの「2楽章」。
一番読みたかったけど、読み終えてしまいたくなかった神楽坂先輩のエピソード、「最後のインタビュー」。
いくつかバンドを壊してしまったことを悔いて、ひとりで音楽をやっていくことを決意した、までは今の俺の心情と妙に重なるので、一気に読み進んでしまう。
お陰で俺が音楽を続けてきて、常日頃から「俺に刺激をくれるものなら、何でも」と呼んでいたものの正体が何であるかが、ようやく掴めた気がする。
しかし、死んじゃうのはズルいよなぁリュウジ。
俺も誰かに、ここまで想ってもらえるのだろうか、自身が消えてなくなるときくらいは。
これまで散々好き勝手いわせてもらっちゃったから、恨み節しか買ってないな最近の俺。だったらいっそ、気がラクというものか。
こんなご時世だから、死というものをいつもにも増して身近に感じてしまうが、死んじゃってからどんなに惜しみ悲しんでもらったところで、故人にとっては全く意味がない気もする。
「コロナでは死にたくない」と口々にいう複数年長者の主張では、死出の道行きに際して誰にも看取られないで荼毘に付されるのは耐えられないというのだが、所詮人間、死んでしまえばひとりじゃなかろうか?
もっともその刹那にでも、(この物語にあるように)誰かと本当に心通いあうことができたなら、死もそれほど恐れるものでもなさそうだが。
いずれにしても、だったらひとりでやっても同じこと、と期せずして「先輩」とは真逆の結論に至った今の俺は、「ざんねんな生き物事典」への出演決定だ。

一連の物語の登場人物たちが魅力的過ぎて、一向に俺の心から出て行ってくれないので、他に買ってある本を手に取る気がおきない。
いつまでも反芻してしまい、次の物語に進むことができないまま、いろいろ積みあがっちゃった部屋の景色が、とても荒んできてしまった。
本を読むこと自体が人並みはずれて遅いとは思わないのだが、毎度こういった体でいつまでも余韻に浸っていたくなっちゃうので、次々と手を出すということがどうにもできず、従って読破冊数もいつまで経っても増えない。

これは読書感想文ですか?(恥)

*1:定禅寺ジャズで買ったやつ

*2:冨田勲さん宅の、壁一面音源モジュールという映像をテレビで見たことがある人も多いのでは?

*3:小説版の3巻に出てくる