日本のいちばん長い日

1965年の刊行当時は、「いろいろな事情から、大宅壮一編と当代一のジャーナリストの名を冠して刊行された」(あとがきより)とあるように、本書の前書きも大宅壮一氏のものになっていた。

今日の日本および日本人にとって、いちばん大切なものは"平衡感覚"によって復元力を身につけることではないかと思う。内外情勢の変化によって、右に左に、大きくゆれえるということは、やむをえない。ただ、適当な時期に平衡を取り戻すことができるか、できないかによって、民族の、あるいは個人の運命がきまるのではあるまいか。
大宅壮一・序より)

と、何やら現代、それも当時ははるか先の見えない未来の話であったはずのコロナ禍の現代にも通じる示唆を読み取ってしまうのは、なんだか不思議だ。
同じようなことをつい最近、時代小説家の塩野七生さんもおっしゃっていたのを聞いた。
歴史を学ぶ、というのはこういうことなのかも知れない。

その刊行から30年を経た1995年、新たな調査を踏まえて「決定版」と銘打って刊行されたものを読んでいる。
毎年8月になると取り上げられる、NHK制作のドキュメンタリーなどで書名は断片的に見知っていたせいだろう、天皇によって終戦詔書が録音された玉音盤の争奪戦を描いた小説だとばかり思っていたのだが。

一般に8.15事件を録音盤奪取事件と同意に扱っているが、それは正しくない。くり返して記したように、宮城占拠による徹底抗戦事件ともいうべきなのである。録音盤の有無、その捜索は少なくともある段階までは第二義的なものであった。
(「"いまになって騒いでなんになる"木戸内府はいった」章の注記38)

とあるように、徹底抗戦派が押し入った宮城内で徐々に追い詰められて初めて計画されたのが、録音盤の奪取だったというのは意外だった。
結果的に現代からさかのぼってみれば、彼らは「叛乱軍」ということになるのだろうが、本書にも一部が描かれている当時の価値観に思いを巡らすと、「叛乱軍」と切って捨てることもできない気がする。
結果はともかく強く信じられるものがある、ということは天職と巡り合えるのと同じくらい、もしかすると人として幸せなことなのかも知れない。
一見積み重なった偶然のようなたくさんの出来事が幸いして、今の日本があるわけだが、当時そのひとつでも歯車が食い違っていたら…という内容の物語は丁度、一日分にあたる「24幕」で構成されている。
やっぱり、現代史は面白い。
こんなに今の我々の生活に直結したできごとも多いのに、学校では一切教わらない。
もっとも、学校で教えない方がいいのかも知れない。学校で教わるようなものはだいたい何でも、ツマらなくなってしまうものだ。