常識的。

何度かここでも触れてきたことだが、ウチの会社は零細な事業規模に不相応な、多くの視覚障害者を抱えている。
健常者スタッフの中ではミニラだけが唯一、パソコンを全く使えないのだが、そんな一見(笑)健常者であってもできないことがあるのは当たり前な世の中で、ワード、エクセルはなんとか使えてもネットでの調べものができないヤツだったら我が社にもザラにいる。かくいう俺自身も、先日そんな話になったコツ骨サマに、人間じゃないようなものを見る目で見られたばかり(笑)なのだが、ご存知の通り普通免許を持っていない。つまり俺にとっては自動車の運転が無理ゲー(まぁ身体能力的にできないことかどうかは別だが、少なくとも法的には)。
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ここから先は当事者の思いを全く考慮しない、やや荒っぽいものいいになるかも知れないが、ちょっと極端にブレストしてみる。
「できないことがある」ということ自体は本来、障害の有無とは無関係だと俺は思っている。
それを「障害」と呼ぶと誰にとってどう都合がいいのか、といった問題を一旦脇に置いて考えれば、何ができて何ができないかということは、何よりも自分の職務能力を正確に把握するために必要なことであって、それ以上でもそれ以下のことでもないように思える。
しかし、身体に障害を抱えている人たちにとっての「基準」や興味関心は、やっぱりどうしても「どれだけ健常者と同じ」仕事の片付け方ができるか、ということらしく、当然それは本人の努力とは無関係に、自身の「障害」に悉く阻まれることになる。
それよりも、できないことはどうやったってできないと開き直った上で、独自の仕事との向き合い方を考案するとか、障害を抱えた人間と健常者との「協働モデル」を創るとか、そういうスキルを社内で共有・体系的に積み上げていくとか。
長さだけは誇れる我が社の歴史の中にあって、そういう独自性を育む機会はいくらでもあったと思われるのだが、残念ながら現在の我が社にそういったものの片鱗は見当たらない、ように俺には見えている。
誤解のないように申し添えておくと、少なくとも俺を除いた我が社の健常者スタッフは、視覚障害者が困ったことがあれば咄嗟に手を差し伸べるくらいの気働きがいつでもできる優秀な人たちなのだが、肝心の障害者サイドが、自身の「弱み」をどうやっても見せたくないらしく、結果、見かけ上「視覚障害者に付き従う健常者」、という(逆)奴隷制度のような、妙な事態になってしまっている(というと、さすがに言い過ぎか)。
これは現代的な福祉の現場のあり方としても「誤った形」なのではないかと感じている。
まぁいわゆる福祉事業所ではないんだけどね、ウチの事業形態は。
健常者だって(無自覚な上から目線で)助けるばかりの存在ではないし、障害者だって助けられてるだけの存在ではない。
少なくとも前提条件となる、障害者と健常者による「対等な」双方向コミュニケーションが成立していない。

もう長いことこういう(ぬるま湯のような)状況が続いてしまっているせいか、障害者スタッフは飽くことなく、社会常識では到底通用しないような「事故」を毎日のように繰り返している。
当然、明文化されたマニュアルなんか一切ないわけだが、事態が刻々と変化するにも関わらず、自分たちのやり方を「1㎜でも」動かされることに対してはとても敏感になっていて、もはや意固地。
仕事に携わっていくことを通じて自分を少しでもいい方向へ変えていこうなどという意識は芽生えないようで、本人が変わろうと思っていない以上、周囲でいくら、どんなことばを尽くしてみたところで馬耳東風、何も変わらない。
なぜか健常者側であるはずのミニラが、一番最初に怒鳴り込んでくる始末だ(笑)。

翻ってじゃあ俺自身にはどれほどの常識があるのかと問われれば、さして自信があるわけでもなく、むしろ世間的には「常識知らず」と言われる側の人間だろう。
社会人としては、新年度の始まりに夢と希望を胸に抱いたこともない中途採用ばかりだったし、当然同じ会社に同期入社の仲間がいたことも一度もなければ、ちゃんとした職員研修なんかも受けたことがない。
そうやって会社を渡り歩いてきた人間としては、今の上司となんとかまともに会話してもらえてることをもって、「実は俺、本人が思っているほど世間知らずなわけでもなさそう」と恐る恐る自己確認しているくらいの「常識知らず」なわけだが、そんな俺が見て、毎日が「非常識事態」な我が社。
事態が社内で留まっているうちは、俺も笑ってみていられるわけだが。
常識って、何なんでしょ。話がすっかり逸れてしまった。

こういう一連の環境把握能力自体が、真の「心の闇」なのではないかと、今の俺には思える。
視覚に障害があるかどうかとは別に、こういった自身の周囲環境の捉え方なり社会に対する考え方なりの方がはるかに「障害」で、実はこのことの方が視覚「障害」といった場合の「本態」ではないかと思うのだ。
もっとも、我が社の就労環境の方が特殊過ぎていて、広く世間に一般的な視覚に障害のある方にとっては、そんなことはないのかも知れないが。
所詮は俺も俺の見える「狭い社会」での、日々の出来事から類推してそう感じているに過ぎない。
しかしこういう状況を所詮他人事として傍から見ていると、自身の障害を「受け止めきれていない」「ちゃんと向き合えていない」気がして仕方がないのだ。
個人の性格にもよるだろうが、自身の障害についてもっと忌憚なく具体的に語ってくれたら、と思う。
相手が他ならぬ俺じゃ無理、という話でもあるか。

折しも

「JRに乗車拒否された」車イス利用者のブログに賛否

といったニュースが数日前にネット上を賑わしていたようで、俺はそもそもあまり興味がなかったので、全ての記事にちゃんと目を通してもいないわけだが、それを承知で勝手なことをいわせてもらうと、この車椅子の方の断片的に伝わってくる発言からは、同じように「自身の障害を受け止めきれていない」においを感じ取ってしまった。
自身の障害へのもどかしさから八つ当たりをされている、というような単純な話でもないだろうが、それにしても俺のこの勝手な印象の通りだったとすると、何の社会問題の解決にもならないし、誰も幸せになれない気がしている…。

自身の心のありようや精神世界に対して興味・関心を持てるところまでの気持ちの余裕がなかなか持てない、というのが障害を抱えて生きていくということの本当の「障害」なのかも知れない。
この点、当事者にしかわからないことはまだまだ多いのだろうし、そういう自身の思いを適切に言語化できる障害者がもっと増えて欲しいと思っている。
残念ながらそこからしか、真にわかり合うことはできないと思うから。

いつも通り思いつきで書いているうちに、かなりセンシティブなテーマに踏み込んでしまったので、俺の一方的で無神経な表現を不快に感じられた方がいたら、心からお詫びする。
俺自身は福祉が専門でも何でもなく、一介のしがない事務員で、まだまだ不勉強な部分があるのは少なくとも自覚しており、あくまでも今の俺の「現在地」として、(自分自身のために)記した文章であることをご承知おきいただきたい。
それでも常識の枠からうっかりはみ出してしまった俺のこのブレストが、誰かの示唆への一助くらいになるのなら幸甚だ。