「涙活」の発見と意義(笑)

…いやいや、それほど大仰な話でも…。
先日、新参者の俺でもラジオリスナーとしていろんな番組で頻繁にお名前を見聞きしている方からのツイートで、仕事やそれにまつわる人間関係ではなく、プライベートでのイライラ・モヤモヤした気分の解消方法について、みなさんはどうしてますか? というような呟きを見かけた。
こんなご時世がもう長い事続き、誰もが少なからず気詰まりだったり気を張ったりし続けているわけで、メンタル的に不調を感じない方がむしろどうかしてる。
実は俺自身、箸が落ちてもイラっとするような場面がこのところ増えてきた自覚があったので、

  • パソコン時間を減らす。
  • 努めてうまいものを食う(化学調味料や加工食を避ける)。
  • 泣く

と返した。
他の方たちが、笑う、とか歌う、とか、俺から見るとそれ自体メンタル強めな解消方法を答えていたせいか、特に最後の項にフックしてくださったようで、その後少し、ツイッター上でのやりとりがあった。
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今でこそ「涙活」ということばが一般的になってきているが、俺自身はいろいろひとり密かに試しているうちに辿り着いた結果であって、実は後付けでそういう言葉があって、同じことをやっている人たちが結構多くいることを知った。
俺は幸い、本を読むことは嫌いではないが、HSPのお陰かどうか、1冊気に入ってしまうと、その世界観に浸り続けながら何度でも飽きずに読み返している時間に幸福を感じてしまうので、一向に冊数が増えない。
映画のDVDなどでも同じことが起こる。
ここ数年は、そんな「涙活」用のネタ本が何冊かストックできる状況になった。
読書は専ら湯舟につかりながらで、これならひとりになれる。まぁ元々独り暮らしなので自室でもいいのだが、どうやら「泣く」という行為自体がまだまだ、人目を憚るという意識を捨てきれないので、自分自身に対して「ここなら誰からも見られることはない」という暗示をかけているわけだ。
本が濡れてしまうのではと心配する向きもあるが、実際にやってみると気を付けていればそれほどのことは起こらない。
涙するシーンも、読む本によって決まっているときもあるし、もう何度も読み返している本でも思いがけないシーンで目頭が熱くなってしまい戸惑うこともある。
簡単に泣けちゃうようなときは、ああ俺メンタル参るようなことが続いてたんだな、と思えて、一種のバロメーターにもなっている。

社会生活を送る上では、個人の喜怒哀楽はどうしたって制限される場面の方が多い。
職場で一番多いのが怒りを爆発させたい場面だろうけど、お互いそうそう怒り出すわけにもいかない。
知らず知らずのうちに、自分の心にいろんな感情を溜め込んだまま、いつしか表情までが固まって仕事を続けている。
涙活とは、そういう方向で「心落ち着かせる」(我慢する・抑え込む)のではなく、むしろ外から自分の感情を刺激して「揺さぶる」ための段取りだ俺にとっては。
要するに社会生活を送るうえで、発散すべき感情を出せないままストレスになっている、という考え方なので、それをどんな形であれ無理やり自分の内側から「出す」デトックス、のひとつの方法として説明したかったわけで。
ツイッター上のやりとりだけでは何せ文字数が限られてるので、簡潔な説明って難しいな。
しかし、自分が持っているであろう感情の中ではやっぱり、笑っている、怒っている、などは想像しやすいが、泣くことは社会の中でも忌避されているようで、泣いている自分は想像すらできないもんだ。それだけ泣き方を忘れている、ということか。
特に男性の場合は、男女平等とかいわれながらもまだまだ「女々しい」*1とか言われちゃうわけで。
でも、あのメーテルさんもおっしゃってたし。
「男の子が泣くことは、決して恥ずかしいことじゃない」
…え、このメーテルさんじゃない?
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*1:この表現自体もどうかと思うが