どんな101年だったのだろう。

こうして話を聞いているだけでは、どうも響いてこない。
祖母に直接聞いてみたかった、と思っても後の祭り。
今更ながら、聞きたいことはたくさんあるのに、「主役」は何も語ってはくれない。

明治44年7月25日、東京の下町、向島生まれ。
学校の先生になりたかったらしい。まだまだ女だてらに、という時代。大学進学は断念して、洋裁学校へ。
日本銀行に就職、芝居をやっていた祖父と出会い結婚。
その後、祖父が報知新聞の福島支局長として福島に赴任、母が生まれる。
そして銀行に転職して、上海へ。祖父が一足先に中国へ渡り居を構えたらしい。この間に祖母は、大陸暮らしに備えて社交ダンスの練習をしたりしたとか。
靴箱に、当時としては珍しいハイヒールが複数あったのを、母が覚えていた。
斎場で初めて見せてもらった上海時代の写真の祖父は、松平健のようなイケメンだった。
祖母と手をつないでいるのは幼い頃の(俺の)母、そしてまだ目も開いていない叔母が抱かれて写っていた。
そんな平凡だが幸せだった暮らしから、一気に終戦。一歩間違えれば残留孤児、というタイミングで、杉並の親戚を頼って帰国。ただ、ここでの暮らしはあまり幸せとはいえなかったらしい。すぐに赤羽の引揚者寮に移る。
練馬の都営住宅に、高倍率で運良く当選したのはこの後らしい。
ようやく俺たちが記憶している、豊島園裏の平屋。
狭い庭に四季の植物が植えられていて、いちじくの実る頃にはよく家族一緒に食べた。
祖父が自ら掘ったという小さな池には鯉を飼っていた時期もあった。

埼玉の新居を建てるとき、叔父はこの練馬の部屋と同じ間取りを意識したという。
年をとってから、下町風情の残る*1練馬から、知り合いひとりいない埼玉にくるのは、相当勇気がいることだったに違いない。
幸せだったかどうかは、俺たちが決めることではないが。
ただ、こうして順調に家族が増え、俺を除けば孫もみんな立派な社会人だ。そんな晩年は、悪くなかったんじゃないかと思う。
俺は、祖母が毎日眺めていたであろう穏やかな山里の木々や山々、まだ冷たい北風を感じたくて、待ち時間にひとり斎場を出てみた。

こっちへ来てからも、俺の下手くそなピアノを何度でも聴いてくれたっけ。
歌も楽器も、今日この場で聞かせてあげられなかったのが心残りだ。

*1:同じように大戦被災で、下町から移り住んだ人たちが多かったらしい