出棺。

オトコ孫連中で、霊柩車へ棺を運んだ。
火葬場では、釜の重々しい鉄扉が閉まる段になって、不意に涙があふれて止まらなくなってしまった。
ここへきて俺にも、孫の心の断片が残っていたらしい。
肉親の死までが遠く感じて、「慣れる」ことが大人だというのじゃ、そっちの方があまりにも悲しいじゃないか。

親族での話の種に叔母が持ち込んだアルバムは、祖母自身が整理していたものだという。
祖母はどんな思いで、これらの写真を眺めていたのだろう。
祖母の手になる母のドレス姿や、妹の卒業式のスーツ姿の写真もあった。
勝気で頑固な、祖母だった。
でも、俺たち孫にはいつも笑顔だった。
ここ数年は、一緒に暮らしていた実の息子(叔父)のいうことは素直に聞かないくせに、孫たちが同じことをいうと素直に従った、と叔父が笑う。
母が尋ねて行った数年前には、姪と間違えたまま、母本人の悪口をいわれたこともあったらしい。ここ最近は、主に世話をしていた孫のことすらわからなくなってしまっており、病院のベッドではしきりに「(向島に)帰りたい」ということも。
最期は、「俺だよ、わかる?」と叔父がいったのに、笑顔を返したというが、
「本当にわかっていたかどうかは、今となっては誰にもわからないけどな」
苦しまない最期だった・・・。
この間も一番身近に接してくれていた叔父一家には、本当に頭が下がる。俺がここに書いていることは、ろくに介護の苦労も知らず、何もお手伝いできなかった、祖母とのいい時代の思い出だけにすぎない。

葬儀での、次の記憶はもう火葬後で、一気に人が亡くなったのだ、という実感から遠のく。
焼き場の担当者が、どこの骨、と説明をしてくれるのだが、今日の施主である叔父は解剖医だ。釈迦に説法、という感じ。
祖母の骨とともに関節に入れた金具があった。
近所に買い物に出て転倒、骨折した際に入れたものだった。
最後に、祖母が使い慣れたメガネを骨壷に一緒に収めた。

叔父が周囲に気を遣って、こじんまりとした家族葬となったのだが、お陰で俺にとってはゆっくりお別れができて、こうして思い出に残るいい葬儀になった。
職業柄、人の死と生を見つめてきた人たちのことばをたくさん聞いた。
地域に根を張り、専門職を磨きながら、つながりを持って生きること。
今からでも、俺にはできるだろうか。

久しぶりに家族で出かける機会になった。途中駅で両親を見送り、俺はそのまま、7時すぎには千葉の部屋に戻った。

数日経った今になって思うことは、もっと頻繁に顔を出しておけばよかったという思い。
尋ねていっても俺がわからなくなっていたらどうしよう、という現実に向き合う勇気が、俺にはもてなかったのだ。
そうして徐々に足が遠のいてしまっていた。
これも今頃気づいても、遅いわけだが。

夜8時過ぎに、コンビニに行ったらちょっと雨が降っていた。
ばあちゃんは、ちゃんと辿り着けたらしい。そんな気がした。