邂逅・江古田からの、WINS練習。

大学卒業時期の前後、練馬区の江古田に下宿させてもらっていた。

なんてことのない住宅街が広がる一帯だが、小振りな建物の小竹図書館は居心地のいい場所だったし、天気のいい日は気分転換によくあてもなく散歩したりもしていて、南は新井薬師駅、北は小竹向原駅くらいまでは、徒歩圏内だった。
というわけで天気もよかったので、1時間ほど早めに家を出て、江古田駅経由で「思い出散歩」をしつつ、徒歩で小竹向原の練習場へ向かうことにした。いったい何十年ぶりだろう。

西武池袋線江古田駅は「えこだ」と濁らず読むが、練馬区栄町に位置する。練馬区には「江古田」の地名は存在しない。駅南側の目白通りを境に中野区に「えごた」があるが、こちらは濁って発音する。駅名はこの「中野区江古田」に由来することは確かなようだが、なぜこんなことになっちゃったのかは不明。因みに、後に開通した都営大江戸線の「新江古田」は「しんえごた」になっている。
降り立った江古田駅は、大きく変貌していた。

江古田駅は地図上、池袋から北西に向かっていた西武池袋線が西に進路を変える曲線上にある。周辺に大学を3つも擁しているのに、今でも各駅停車しか止まらない駅だ。その昔西武鉄道の前身・武蔵野鉄道の頃に、電車の遅延に怒った学生たちが、池袋駅で暴動を起こし電車を破壊したという事件以来の「遺恨」なのではないかという冗談のような話があるが、実際には池袋駅からの距離が近すぎるんだろう。
その、曲線上の駅の上下線ともに、通過電車を待つ待避線が(本線の外側に)あった。事故も多かったのだろう、実際に俺が下宿していた間にも線路転落者が「バラバラ」になる事故があり、ひと駅池袋寄りの東長崎駅を改築して、そっちに待避線を設けたようだ。
明らかに線路があった痕跡がわかるが、従って今は上下線が向かい合ったホームに挟まれる、というありきたりの駅になってしまった。
そのホームに覆いかぶさるような立派な橋上駅舎は、南北自由通路を兼ねる。
当時は南北それぞれの改札口の間を、無機質なベージュ色に塗られた古レール組みの、木造で幅の狭い跨線橋が繋ぐ構造だった。夏の夕べにはこの跨線橋上の窓から豊島園の花火がよく見えた。
駅を抜けて南北への移動は当然改札口経由だったので、駅東西の踏み切りでは開かない時間帯、人と車で大渋滞だったが…。

立派な駅舎のあった南口とは対象的に、北口は木造跨線橋のどん詰まり、階段上に無理矢理設けた改札口、といった印象で、突き当たりの壁には自動券売機、その裏側、つまり金銭管理などをする小部屋は、跨線橋から駅外側空中へ飛び出して設けられていた。その小部屋の下、橋脚の間にも宿直室のような小部屋がもうひとつ、無理矢理くっつけてあったような記憶がある。下から見上げると、なんだかちょっとした要塞のような趣だった。
南北両改札ともシャッターなどはなく、終電が終わると自動改札機には専用のビニール袋が被せられていたが、鎖で施錠されているとはいえ扉は開いた状態だったので、夜中に飲んで下宿に戻るときなどよく通り抜けさせてもらっていた。真っ暗な跨線橋の窓から入ってくる僅かな光は、月明かりのように目に映った。
両外側の待避線を撤去した分、上下線ともホームの幅が拡がった。跨線橋も階段の幅が広がり、線路沿いの小径も見違えるほど幅広くなっていた。
元々自炊なんぞはあまりしなかったが、教育実習中の2週間は毎日、この駅前にあった喫茶店のモーニングセットで朝食を摂ってから、赴任校に向かう電車に乗っていた。専攻学年に入った授業は1限目から、などということはあまりなかったが、教育実習期間だけは毎朝早起きしなければならなかったからだ。

丁度、リバイバルカラーのニュー・レッドアロー号が通過していった。この色、なんだか似合っていないと思うのは、俺だけだろうか。そもそも車両デザインは色や塗り分け位置込みでの新車だろう。なのに「リバイバルカラー」って、デザイナーはどう思っているんだろう。

北口で駅の階段を降りると、江戸の昔から変わらずあるのが富士浅間神社
社殿の裏手にある立派な富士塚は、高さ8m 直径30m。富士塚としては大きな規模のものらしいが、周囲に高層マンションなどが増えてしまった今では、あまり大きく(高く)感じられない。富士塚は江戸時代に多く築かれたもので、当時流行した富士山詣に因み、富士山まで行けない人たちがここに登ると同じご利益が得られる、とされたもの。今でも江戸川区あたりに現存するものが多いと聞いたことがあるが、俺自身、流山でお目にかかった
晦日の夜に登った記憶があるが、その後は事故でもあったのか、夜間は開門されないようになったと記憶している。もちろん今はどうなっているのか知らないが。
この浅間神社では当時もうひとつ、心霊写真スポットとして脚光を浴びたことがあり、「木花之佐久夜姫」が写るのでは、ということだった。
浅間神社の角を右手に曲がってすぐ、スポーツ用品店の隣に、浅間神社ともどもこの道を薄暗く感じさせるような古い木造モルタルアパートに、俺は下宿していた。学生の身分だったので、当然風呂なし、トイレ共同の6畳一間。部屋の窓はアルミサッシに替えてあったが、元々部屋幅一杯の4枚で通気がよく、畳も団地サイズではない昔の6畳で、窓の内側下には収納があって出窓のようになっていて、通常の6畳間よりは広く使えた。比較的新しいアパートと違って内階段を上がると真ん中に廊下を挟んで部屋が並ぶ構造なので、訪問者があっても建物全体が揺れる、などということがなく、心理的に余所者も足を踏み入れにくい。玄関に入るとすぐのタタキ上には黄色い裸電球が1個、ここに設置されているガス台とシンクは水色のタイル張りだったが、目地から水が漏るようになってしまったので、入居途中にステンレス板を貼ってもらった。
月1度、大家さんに直接家賃を納めに行くために裏手の戸を開けると、通りからは全く隔絶された、建物に囲まれ土くれだった中庭には井戸があった。この下宿の水道も井戸水だったようで、当然湯沸し機などついてなかったが、夏は冷たく冬はぬるくてやさしい感じがした。
2階でもこの部屋だけの特徴として、窓の外で丁度、線路側の建物が切れている位置だったので日当りがよく、このスリット越しに江古田駅に出入りする電車を見ることが出来た。もちろんこの窓際に座ってボーっと眺めているのが、お気に入りの時間。学校に通うのに電車を利用する必要はなくなったのだが、東京に震度5の地震があった早朝、いつもの時間に始発電車が来なかった日はさすがに不安に思ったものだ。携帯電話もインターネットもなかった頃の話だ。
携帯電話もメールもない、といえば、年末の電話代の振込みが期限ギリギリになってしまい、先方の手続き間違いで一時的に電話が止まってしまったことがあった。年末年始の期間で学校は休みだし、他の下宿人は実家に帰ってしまったのかアパート内には全く生命反応(笑)がない。玄関脇にあった公衆電話で連絡を取っていたが、それだけで社会から隔絶されちゃったような気分になったものだ。
さすがに老朽化による取り壊しを機に、俺は実家に戻ることにはなったのだが、俺は大家さんに気に入ってもらえたらしく、他の住人の退去期限を越えても居させてもらえた。俺の隣室の住人と退去期限についてちょっともめていたようで、下宿人がひとり残っているなら二人いても同じだろう、ということだったらしい。隣室の住人は当時まだ珍しかった、今でいうフリーターで、本人によると司法試験の勉強をしていた。隔てる壁の薄い部屋で、俺の(固定!)電話の話し声がちょっと大きくなるようなことがあると、途端にドアに苦情のメモが挟まれていた。根は悪い人ではなかったようで、実際これ以上のことはなかったので、俺としてもそんなに気にはならなかった。
まぁ俺も、今も変わらぬ貧乏暮らし、といったところで、そういう意味では「同士」みたいな妙な親近感もあったのかも知れない。
大家さん、隣室の住人…今頃どうしているのだろう。
いつの間にか相当時間が経ってしまった話ではあるが、昭和も30年代の話、でもない。平成に変わった頃でも、まだこんな暮らしが経験できたのだ。
今は木造アパート2棟と中庭、その広大だった敷地を丸々使って、マンション型賃貸住宅に生まれ変わっている。浅間神社側の通りも少し明るくなったように感じられた。

浅間神社脇の道を北へ、歩を進める。

銭湯、浅間湯の煙突が見えて、まだ営業していることにほっとする。俺がTake6グラミー賞受賞ライブに脱衣場の大画面で遭遇し、フリーズした現場だ。
下宿する際、銭湯が近いと何かと便利で、コインランドリーは併設されているし、何より冬場に湯冷めせず帰宅できる。ただ、浅間湯は江戸っ子仕様のようで、湯がやや熱めだった。少し先の銭湯に行くことが多かったように思うが、それがどこの銭湯だったか今や思い出せない…。
湯冷めの心配のない夏場は、大学の合唱部室隣にあったシャワー室を使わせてもらうことも多く、夜中によく門扉超えをしたりしていた。大学の正門は高くて超えられないが、両脇の石垣に登ると横格子に足がかかり、丁度跨げるようになる。女子もデニムなら平気でよくのり超えていたが、やむを得ずスカート着用の時に超える場合、男子は門に背を向けて待っているのが部員同士暗黙の了解になっていた。
当時、年に一度の学園祭は、随分前の学生運動の影響を引きずっていたのか学生による「自主開催」という位置付けで、24時間営業(笑)。アルコール類の提供も普通にやっていて、おおらかな時代だった。
最終日に模擬店をやっていた教室でそのまま打ち上がって雑魚寝。すっかり酔いも醒めて朝起きると、11月の寒さに猛烈後悔するわけだが…木々の多い早朝の校内にはたいていこの時期、霞が漂う。毎年この日ばかりは霞がアルコール臭だったものだ。

話を大学から駅周辺に戻すと、その先右手が江古田斎場。駅から見て浅間神社の裏手に位置する。合唱部の先輩のご親戚が亡くなられたとき、一度だけ受付役を仰せつかったことがあるが、幸いそれ以外でこの敷地内に入ったことはない。
道路拡幅工事のために移転した「砂時計」は、2階にアプライトピアノがある喫茶店で、新入生歓迎会なんかによく使わせていただいた。音大のある土地柄で、俺なんかの拙いピアノをよくぞ聞いてくださったなぁ、と申し訳ないのだが、マスター夫妻はいつも笑顔で迎えてくださった。「砂時計」は今も1本西側の通りに移転して、(ピアノともども)営業中なのが嬉しい。
その先にある「金鶴寿司」も、なにかと節目の日によく先輩に連れて来てもらった。今回の散歩では発見できなかったが、もしかして暖簾がまだ出ていなかったか。
このほか、数少ない女子同伴な場合などは、ちょっと背伸びして(笑)「魔法使いの弟子」なんぞを利用したりした。
隣駅近くの看板屋でバイトをしていた頃には、その昼休みに自転車で江古田まで戻ってきて、「お志ど里」のもつ煮込みにありついていたりした。この店と、何かと当時の関係者と話題になる「鳥忠」が江古田の飲み屋「二大巨頭」といったところだが、そういうわけで個人的には「お志ど里」の方に親しみがある。どちらも南口の店だが。

北口はこの辺りで商店街も終り、工事中の武蔵野音大を経て住宅街へ入る。

びっしりと建っているだけでなく、家々の作り・年代がまちまちなので、この街自体の歴史の長さを感じる。
関東大震災で焼け出され、都心から移住してきた人たちが多いと、大家さんから伺ったことがある。そういわれると不意に、下町ミームを感じ取れるものが目についたりする。

あれ? おくちゃんまだココに住んでたんだ!!
さすがに事前通告なく尋ねるのもなんだったので、今回は素通りの無礼になってしまったものの。Weekendsの前身にあたるバンドをやっていた頃は、俺を含む3人が江古田に住んでいて、互いの部屋を行き来していた「黄金時代」は、2年も続いただろうか。3人とも講義がなく、自室にいないときは溜まり場にしていた南口の喫茶店も、下宿時代に閉店してしまい、マスターは山陰の実家に帰ったということだったな、確か。

北口にあった別の喫茶店は、オーナーが亡くなって代替わりしたらしいと、今日WINS阿佐ヶ谷の練習でメンバーから聞いた。

その後はアパートの取り壊しが迫ったので一旦実家に戻り、数年前に仕事の関係で始まった千葉での一人暮らしは、まだ「二度目」ということになる。
あの頃の一人暮らしと、今のひとり暮らしと。
できるようになったこと、できないままのこと。
何かあると「あの頃」に戻り、比べようとしてしまう自分がいる。
頑張って働いていれば、誰にでも豊かな暮らしが訪れるものと思いこんでいた、あの頃。
仔細に思い出しつつブログを書いていたら、とっくにないはずのあのボロアパートの自室とその周辺が、妙に鮮明な夢になって出てきてしまった。

なんだかこの歌を、ついくちずさんでしまう。