哀悼


叔父の最初の記憶は、小学校にあがるかあがらないかの頃。静岡の祖父の家で過ごした夏の日のこと。当時の祖父の家は、土間がある古い造りの二階家で、妹が座敷からこの土間に転がり落ち、軽い怪我をしたりした。街中をどぶ川が流れていたが、水はきれいだったらしく、子どもでもいろんな魚がすくえた。夜はそれほど暗かった印象はないのだが、天の川が見えた思い出がある。その夜になって、父の兄弟が三々五々集まっていた。男はみな、父と同じように眼鏡をかけており、叔父は歳が父と近かったせいもあり幼い俺には見分けがつかず、ちょっとしたパニックになったのを覚えている。

中学生になり、祖父とふたりで叔父の家に遊びに行った。
鉄道好きな俺のために祖父は道中、東海道線各駅停車の旅につきあってくれた。
最寄り駅まで叔父が車で迎えに来てくれたが、山の上にある叔父の家へはJeepで力強く登っていった。当時、山の夏はクーラーが必須というほどの暑さではなく、幌を張らないJeepで近所の川に鮎釣りに連れていってもらったり、飯田線(当時は80系)に乗りに連れていってもらったりした。東京から従兄弟が来た、ということで、まだ小さかった兄弟姉妹の顔がひょっこり、風呂に入っている俺を並んで窓から覗いていたのも懐かしい思い出だ。彼らももう結婚して、結構大きな子どももいたりする。お土産にもらったカセットテープは、当時流行していた蒸気機関車の走行録音のものと、「銀河鉄道999」のサントラで、今も宝物として俺の家にある。
そうして東京に戻った俺は、すっかり静岡訛りが身についており、両親を驚かせた。
わずか数日だったが、俺にとっては盛りだくさんの、鮮明な思い出になっている。

数年前、すでに病状が進んでいると聞いていたのだが、親戚の葬儀で会った叔父は元気そうだった。「お前は偉いよ」と口癖のようにいってくれたのは、何のことを指していたのか。ついにご本人に確かめることができなくなってしまった。
時々はこのブログも読んでくれていたようだった。
叔父は、大学進学とともに東京に出てきた父とは違い、地元に残って、文字通り根を張った暮らしをしてきたという印象がある。俺はこの歳にもなって、未だにこの社会での「居場所」が定まらない暮らしを続けており、従兄弟が次々と結婚していった頃は遠路東京からということもあったが、ステロイド剤の副作用からくるリバウンド症状で、大勢の人前に出られる状態ではなかったこともあり、ハレの席への参列をご無礼させていただいてしまった。

その叔父が、亡くなった。

先日、病床に日頃は離れて暮らしている父や伯父が、東京から見舞ったばかりだった。
「逝く人」が最期に、このように身内を集めるような結果になることが、時々ある。偶然といってしまえばそれまでだけれど。叔父ももう、この時点で長いこと意識がなかったという。
それから、医師の診断を超えて長生きすることとなったが。

またひとり、俺がこうして「在る」ことを、何があっても手放しで認めてくれる人がいなくなってしまった。

「一足先に、(祖)父のもとへ逝ってしまったな」
父がぽつりと、そういった。