#PrayForKyoani

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ウチの職場は視覚障害者が多いので、改めてこの事件の衝撃と虚無感を共感という形で吐き出すことができない俺がひとり、ジタバタ。
実はかなりのカルチャーショックをくらっているのは、俺の方だ…そんな俺の特殊状況はさておき。

物語やお芝居、絵や写真、それに音楽。
文化や芸術といわれるものは、必ずしも生命維持それ自体にとって「食べる・運動する・眠る」ことのように直接は関係なさそうなものだけど。
喰うに困っているならともかく、ある程度生活に余裕ができるようになると、「人間の生活」を本当に豊かにしてくれるのはカネ、なんかじゃなくて、こうした芸術や文化と呼ばれるものなんじゃないかと思う。逆にそういうものが生活に身近にあること、それを「豊か」だと感じられることこそが、他の動物と大きく異なる「人間として生きる」ことなんじゃないだろうか。
昨年末からテレビのない生活を続けていて、丁度ここ最近は何かと行き詰りを感じていた俺の日常生活の中にあって、DVDを観るというのが数少ない独り暮らしの楽しみとして、新しい生活習慣になりつつあったところ。作品数としては決して多くなく、飽きることなく同じ話を何度も繰り返し鑑賞しては、時に笑い、時に涙して、「また明日から生きていこう」と思わせてもらっていたところだった。そんな定番作品の中には、知らず知らず「京アニ」制作のものが徐々に増えてきていたから、この業界のことを知らないなりに名前だけは憶えていた。
それだけに、今回の出来事は本当に心に「痛い」。
当面は現実に起きてしまったことへの「邪念」なしに物語に入り込むことができそうになく、今は何よりエンドロールが正視できない。
しばらくは映像そのものを愉しむこともできないだろう。
狭義的には多くの優秀な人材、スキル、それに記録やフィルムなどのデータを失ったということになるが、こうした文化に対して「無知な破壊行為」は、そうした世界の果てにいたはずの俺からも、やっと見つけた生活の潤いを理不尽に奪っていってしまった。
こんな理不尽さには負けることなく、時間はかかってでもいつかはまた、元通りの生活に戻したいとは思っているが。

俺がツイてなかったのは、来週末に演奏の予定があるのだが、今のメンタル状況のままでは正直どうやっても意気が上がらない。そこはまだ1週間という、潤沢ではないながらも膨大な時間があるので、当日まで決して諦めず、何とか過去の演奏経験をフルに動員してでも、いつものように本番演奏にその「頂点」を持っていきたいとは思っている。
何より当日の演奏を楽しみに、わざわざ会場まで足を運んでくださるお客さんたちにとっては、俺の側のメンタルなぞ何の関係もない話だ。
元々形のないものだしそもそもアニメーションと音楽では表現の形そのものが違う。だいたい俺たちの音楽演奏の影響力にしたところで、(京アニの影響力と比べるのもおこがましいが)一度に高々数十人が関の山というところだ。
けれど、「もらったもの」は直接返せないながらもちゃんと引き継いでいきたい。
一見滑稽で無理なこじつけのようだが、そういう風にでも思わないと、思えるようにならないと、いつものように歌える気がしないのだ今の俺は。
なんか自分のことばかりだな。ショックがデカすぎて、まだうまくことばにできないんだよ。