連休ナカ日。

夕方、上野に潤哉さんが出演する合唱団「ひぐらし」の演奏会へ。チケット、もらってました。
「日本語のちから」というテーマで組まれた全4ステージ。
そつない演奏をされればされるほど、随分と遠くまで来てしまった自分を見るようで・・・。自分と同じ音(同じパート)を歌っている人が隣にいるというのは、はるかかなたに忘れかけた感覚。なんだかとっても、大変そうだよなぁ。学生時代は俺も、それが当たり前なセカイを経験してきたはずではあるが。
いまでも6人以上の集団と一緒になると、顔と名前が一致しなくなり、ちょっとしたパニックになることがある。人的キャパシティというものが、極端に狭いのだ。自分の出した音には、自分で責任をとる立場くらいは担保したいものだ、などというカッコイイ理由ではない。が、今の俺の着地点は、アカペラ。違う音を歌っているヒトとハモれればいいんだし。
・・・というようなことを考えながら、みっかってしまった檀ちゃんの横で、連れられてきた猫のようになってました。そもそも他に、知り合いがいるでなし。檀ちゃんは、ライブのチラシ挟み込みに先に会場に来ていたのだった、ご苦労様でした。
日本語のもつ、その歌詞の持つ力に、何度か気持ちがリンクしかかって涙が出そうにはなった。人の声が創り出す空間で、何を聴いてもなんだかとっても切ない気分一色になってしまうのは、「誤解」もはなはだしいなと思いつつ、受け手である俺のほうに原因がアリアリだ。
会場は満席で、さすがに師匠・弟子関係の人脈ができあがっている歴史と、母集団の人数が桁違いなので、こんなとこも、アカペラとは違うなぁ。

例の訃報依頼、どうもここ数日、個人的に発想が後ろ向きか・・・。ことばを贈れるほどには気持ちの整理がつかないし、ことばをかけるべき当の本人がいないのだということに改めて気づく。そんなことの繰り返し。
ねぇ、このまま感覚を麻痺させたような毎日で、いいもんだろうか?
元々「生き急ぐ」、というよりは人生暇つぶしをナリワイとする生き方しかしてこなかったから、どこを叩いてもエネルギー切れ。いっそのこと、ナリフリかまわず動けたら、とアタマでは思ってみても。