五輪景気

テレビは各局とも五輪一色。俺としては見るべきものがない。
俺自身に先日のような腰痛トラブルがなかったとしても、そもそも「元気な人たち」が大嫌いで。
もはやいわゆる「リア充」との区分がつかない法界悋気。
何につけ、ひとつのことを極めるための真摯な努力には尊敬の念を禁じえないが、だからといって競技や記録には全く興味がなく、何より俺が見守っていなければいけない理由が見当たらない。

遡ると中学時代、世の中は「学級崩壊」とか「校内暴力」の嵐が吹き荒れていた。ウチの学校もご他聞に漏れず荒れていた時期があったらしいが、俺が入学したときには進学校に化けており、生活指導主任を兼務する体育教師を筆頭に、まぁいわゆる「管理教育」というヤツにシフトしていた。
その体育の授業というものが苦痛だった。
元々、竹馬とか鉄棒での逆上がりとか、人よりも時間はかかったかも知れないが、ひとつずつできるようにしていくこと自体は、それまで決して嫌いではなかった。
しかし、この中学での体育の授業(他の教師の授業がどうだったかはわからないが)は、何らかの課題が「できるように教える」のではなく、徹底的にダメ出しと気合論の繰り返ししか記憶に残らない3年間で、中学を卒業する頃にはすっかり運動嫌い、スポーツ観戦嫌いになっていた。
今でも、テレビのニュース番組にはつきもののスポーツニュースが始まると、消すかチャンネルを変えてしまう。
ご本人は否定されるかも知れないがこのセンコー、実は体育も生徒も本当は好きではなかったのではないか。
思い出すたびにいまだにかように腹が立つので、温厚な(?)俺としては珍しく、恨み殺してやりたいヤツ一覧に掲載されている、数少ないひとりだ。

ただ、自身が音楽や歌を教える立場に回る数少ない機会に思うのも、まさにこの「反面教師」で、俺が教えることで何か具体的な成果が得られないのはともかく、音楽を嫌いになって欲しくはないと思う。
だから、単に技術的なうまいヘタだけでの評価ではなく、アマチュア音楽なりの(広い)価値観については、いつも考えさせられる。技術だけを教えるのはある意味、一番簡単なことなのだが、音楽を通じて誰もが意識的・無意識的にやりたいと思っていることは、自分を「表現」することだと思うんだよな。

高校に進学してみたら、しごくマットウな体育の先生方が、ちゃんと「できる」ようになる教え方をしていて、気が抜けたものだ。逆にここまで丁寧に教えてもらってできないとしたらもう、俺の運動神経の方の問題だと納得した。
それでも高校の体育の先生方は、その努力もちゃんと見ていて、評価してくださったので、文字通り体育の授業には身が入るというもの。
しかし一転、身体を動かすことが好きになる、というような奇跡のパラダイム・シフトが起きるには、俺の身体も心も「成長」が止まってすっかり固まってしまっており、時すでに遅し。
そういうわけで、俺のスポーツ嫌いは中学時代を契機に、すっかり定着してしまった。

同じ気質の延長戦上にあるものなのかどうか、さらに以前から「純粋真っすぐくん」が最も苦手だ。
いつの間にか合唱でなくアカペラなどという、ちょっとカジュアルな方向にはみ出したポジションに長いこといるのも、この辺に理由がありそうで、
「みんなで頑張ろー」
は確かに学級会的「正論」なのだが、協調性が欠如している俺にはなじまない。
誰が考えてもそれは「正論」ですね、というのを押し付けられる感じがダメなのだ。
正論だけじゃ世の中は回らないだろ、とか、正しいかも知れないけど叶わないのが人間という存在だよね、という話が通じない人。そういう己自身にだって、そうはいっても「正しくない部分」はあるでしょ、という自覚がない人…。
この類の人たちは往々にして、HSP(Highly Sensitive Person)気質な俺が無意識に引いている「境界」を越えて、その「正論」を盾に無遠慮に押し入ってくるので、迷惑この上ない。
人間関係というものがある以上、互いに人畜無害、などということもありえないのだが、この手の人たちはそういう傍若無人な自分の態度が、少なくとも俺をげんなりさせている、という事実を未来永劫、決して認識することはないのだろう…と信じている俺。

ここまで五輪オンリーになってしまうと、五輪の最中なのだからそもそも不幸なニュースなどは一切起こらないし、国民みんながハッピーなはず、といわれているような風潮にも、違和感がある。
トップニュースが五輪での日本選手の活躍で、続いてのニュースも五輪での日本選手の活躍で…このあたりで諦めてテレビを消す。今日も犯罪被害は生まれているはずだし、容疑者側にしてみればこの時期だったから運よく実名や顔写真が放映されずに済んだ、などということになっているんじゃないかとも思ってしまう。
何故にスポーツニュース枠だけじゃいかんのか。
しかもご丁寧なことに、スポーツニュース枠でも改めて同じ内容が報じられる。
何でこんなに「五輪」に「純粋真っすぐくん」なのだろう、テレビの中の人たちって。

テレビを見ないで済む一日は、長く感じる。時間がゆったりと流れている。
学生時代、初めてのひとり暮らしとなった練馬の木造ボロアパートで、まだテレビすらなかったときの、有意義なひとりの時間が戻ったような毎日が、ここ1週間ほど続いている。
別にやらなきゃいけないことは、何もなく、焦ることもない。
もしかしたらこの五輪騒ぎを契機に、五輪が終わってもテレビのない生活に何の不自由も感じないまま、になっているんじゃなかろうか俺。