会社でドラム・コー。

職場で昼休みにやることにしたドラム練習は、俺自身も予期していなかったほど好調だ。
自席背後に置きっぱなしになっているスネアスタンドに、すでに好奇心一杯の、自閉症のボランティアさんが出勤してくる水曜はさすがに練習できないものの。
思いがけず、ドラムの基礎練習には「時間の長さよりも、回数の多さ」、に一番合理的な方法(練習環境)になった。
人目があること(もちろん俺のことなんか誰も気にしてはいないが)が刺激になってて、
「あれ、今日はやらないの?」
と(心の中で)不審に思われないように、と自分への励みにして、抵抗なくスティックを手に取ることができる。
ご存知の通りバンド活動はとっくにやめてしまい、演奏を人前に出す機会はおろか、バンドすら組んでいない状況だが、とにかく無心になって音に集中していられる時間が楽しい。
ウォームアップの方法に問題があるのか、まだ翌日には手の平がちょっとした筋肉痛になるが。

『ロックは淑女のたしなみでして』/福田宏白泉社

昼食を摂りながらになるとそんなに時間もないから、練習メニューも「欲張らない」ことにせざるを得ない。
「ドラム・コー」の練習メニューを中心に据えることにした。
最初数日は、恐る恐るシングル・ストロークのおさらいから手を付けたが、出来てるかどうかはともかく一旦、テキストの終わりまで練習メニューをさらってみよう、という気になってからは、長いことルーディメント練習で行き詰っていた壁をようやく乗り越えられた気がした。
打楽器のひとり演奏で魅せるドラム・コーでは、なんとってもやっぱり「フラムとディドル」がカッコイイ。
そう思う自分の気持ちに従って、フラムとディドルの章の各練習メニューを、さくっと関係図式化してから手を付けた。
もちろん全てのフレーズを自分で叩けるようになったわけではないが、ひとまず何のための練習パターンなのかと、目指すべき次のステップが理解できるようになって、それもひとまず、このテキストの終わりの方までたどり着けたと思うと、感慨深い。
実際にこうやって頻繁に触れていられるだけで、「今の自分には何が不足しているのか」などという理屈をこね出す前に、すっと練習に入れるようになったのも想定外。
このようにドラムの基礎練習は会社でやることに決めたので、週末の過ごし方に対する(「練習しなきゃ」という)気負いも少し減った、気がする。人間、「やらなきゃ」と思うとなかなか手がつかないものだ。
コロナ渦が落ち着いてきたら練習スタジオに入って、ここで学んだスティッキングをドラム上に展開してみたい。

上司はようやく後任が決まったことで、着々と退職の準備中(2月1日から有給消化の予定)。
本人曰く、
「切なさ1割、ほっとしたが9割」だそうだが
仕事を徐々に手放したことで暇が増えたからか、最近は俺にとって、ただのウザい年寄になりつつある。
これまでお世話になったたくさんのことがあるから、なんとか気持ち許せているが。
ご本人「仕事がしんどくなった」ということはずっとおっしゃっており、急速な老化…コロナの後遺症も、あるんじゃないだろうかという疑念を持っている。

ようやくの、初詣。

天気が今一つすっきりしないが、ようやくの初詣に出掛けることにした。

神社境内にあるバスの折り返し場には見慣れない色のラッピングバス。
これが噂の「ふなっしー」バスか!
何の心の準備もなかった偶然の出会いに、テンション一気に上がる。
これは幸先いいんじゃん、2024年。

よく見ると「2741」(ふなっしー)号車!

さすがに1月もこの時期になると人影の少なくなった境内でお参りを済ませると、思い出の芝生で昼食。途中、コンビニで買ってきたサンドイッチにかじりつく。
そうこうしているとワゴン車が5~6台もやってきて、あっという間に目の前に並んで駐車。
デイサービスの車で、これから利用高齢者の方々がお参りをされるらしい。

一息ついてから例年通り引いたおみくじ、中吉。
まじまじと読んでみると、「吉」の割に書いてある内容は割と散々で、去年の小吉よりもむしろ悪い感じ。

境内の案内板に、
「本殿の胴羽目板や脇障子は中国の故事をモチーフにした見事な彫刻が施されており、江戸時代後期の彫工の優れた技術を垣間見ることができます。」
とあるように、ひと通り外周の精巧な彫り物を愛でる。
「参道の階段を上り終わるころに、二の鳥居の向こうに向拝の唐破風が大きく見えるように工夫されています」
ともあって、なんだ唐破風って(モノ知らず)。
多分アレのことだよな、と思って帰宅後にググってみたら、想像通りだった。

帰りしな、そんな鳥居の脇で深呼吸をすると、何か気持ちがすーっと晴れるような気がした。
毎年訪れるたびに思うのだが、風水? だか何かが合うみたいだ。
逆に、あまり落ち着けないのは善福寺池で、実家近くの井之頭池とそう変わらない景色で見える限り特に居心地悪くなる要因が何もないのだが…。HSP気質独自の感性、みたいなもんなのだろうか。

腰がヤバそうなので、帰りに整体院に寄って帰ることにした。

帰りも偶然、3448Fを引き当てる。

ここからキレますっ。

昨夜、新任同僚のパソコンからも作業ができるように設定しといたはずのファイル共有に不具合が。
対応しているところに、いつものように無遠慮にオオサンショウウオ*1が割って入ってきた。
単にコピー機の使い方(そも使い方がわからないヤツに、そういう仕事任すなよ)なんだが、もちろんまずは俺の存在を無視した上で、ウチの上司に訊ねている。完全にお門違い(むしろ無礼)。
説明が要領を得ないと思ったのか、ようやくこちらに矛先が。
こっちは今、それどころじゃない状況なのにいつも通り無神経で、自分の言いたいことだけを機関銃のようにまくしたててくる。
俺も最初からこんな奴に教えてやる気なんか一片もないので、黙ったまま設定だけを目の前で済ませてやったところ、さらになんやかんや言いがかってくるもんだから
「いつから俺と口をきいていいことにしたんですか? ご自分で一方的に決めたルールとはいえ、勝手に変えないでもらいたい」
と、これは誰から見ても怒鳴り返してるよな俺。

……あ~~~~~~~キレてしまった(オオサンショウウオごときに!)

しかも仰天したことには、そもそも(俺を無視するという)「設定」そのものを忘れてるとか、無敵じゃん(ふざけんな!)。
その割には日頃の俺への態度、もう何年も変わっていないんで、これはその場の言い逃れだろうが(状況証拠)。
咄嗟に上司が割って入ってくれて、
「今ちょっと立て込んでるから、気が立ってるんだ」
ととりなしてくれたが。
次に何か訊かれたら、黙って取説渡してやることにする。
俺だって最初から何もかもできたわけじゃない(そも取説を読めないなら触るな)。

何かにつけて「仲介」に入ってくれていたチーフが今日は私用でお休みだったから、直接衝突しそうな嫌~な予感、はしてたんだよな。
後ほど
「さすがに少しは懲りただろ」
と俺に言う上司にまた気を遣わせてしまったことが、一番の後悔として残った。

この上司の(職務上での)後任に決まった同僚が、昼休憩から戻る際に「午後の分」と言って渡されたと郵便物を持ってきた。
これだけで誰のことばか明白なこの言い回し*2
っていうか郵便物を持ってくる仕事は、あっさりと放棄したわけねあの爬虫類。
この午前中の騒動以来、どうやら努めて俺のことを避けてくださっているようで、ありがたい(元に戻っただけだが)。
というか俺の業務遂行にはそもそも、何の支障も起こらないんだが。
元々、今の上司がいらっしゃるうちに一度くらいは「牽制」しておく必要があるな、と思っていたところではあった。
それでなくともこのところチョーシこいてて、俺の態度にいちいち揚げ足取る内容をこれみよがしに大声で話しながら、横を通って行ったりしてたし。
舐められないためにもやはり、定期的に「意思表明」はしとくべきなのだろう(どうせすぐ忘れちゃうだろうけどな)。

新たに着任した同僚(といっても年上!)とはもちろんまだそれほど親しいわけでもないが、世間話をしながらこうやって当たり障りのない雑談(だけ)でやり過ごす「距離感」、随分と簡単に作れるようになったもんだな我ながら、と思う。
入職時の「職場いじめコンビ」*3には、すっかりメンタル鍛えられた(?)もんなぁ。
あの頃に比べたら、自分から話題振る場面でも、胃が痛くなるようなこともないし。

そういえばつい先週も、視覚障害のあるスタッフに頼まれて、プリントアウトしたばかりの文章をその場で音読したが、俺に手渡す手が震えたの、ちょっとショックだった。
え、俺ってそんなに、怖がられちゃってるの?
逆に俺は、今の職場で話をする際に、手が震えるほど緊張する相手というのはいない(相手があの"オオサンショウウオ"であっても)。

退勤間際、コピーしに来た隣の部署の、顔なじみのスタッフに
「むっちゃ忙しそうですね」
と声をかけてみたら、
「そっちこそ、大丈夫そ?(新しい同僚と、うまくやっていけそう?)」
と、見てないようで見ててくれたようで。
今の上司と新しい同僚、業務引継ぎに際してはなぜか言い合いになるんだよ毎度。その間ずっと、俺がひとり無言でいるのが傍目にはフリーズしているように見えたらしい。
いや、大学時代の先輩・後輩関係って正直俺にはわからないので。
なかなか強い口調だけど、おふたりにとっては日頃からこのくらいのやり取りが当たり前だったのかも知れないし。
ともかくも今の上司が長年、間に入ってくれていたお陰か、思った以上に俺の味方になってくれる人は多いみたいだ。

昼間の自身の騒動ではどうなることかと思ったが、終わってみれば「プラマイ・ゼロの日」ということか。

その後。
「設定」を思い出したのか、それとも思いがけず強い「反撃」を受けたからなのか、自身が用もないのにこちらの社屋に降りてくることは明かに減った。
しかし電話の取次ぎだけは、互いに無言というわけにもいかない。
入職時の俺には散々、「取次がなっていない」と重箱の隅をつつくような難癖をつけていた割に、このところは俺に電話を回してくる際、必要以上に緊張感が漂っている。
大きな会社からの電話取次では、ちゃんと部署名や担当者まで聞いといてくれないのは、地味に困っている。
電話をかけてきた先方の部署が違うだけで、こちらも対応内容が全く変わるんだが…ぷぷぷっ。

新社会人諸君、学校の外の「社会」には、今のキミらの想像なんかはるかに超える、オトナゲないオトナがいっぱいいるよ。

*1:我が社でも古株のバァサン。顔つきが爬虫類

*2:郵便局の配達は通常、昼過ぎに1回。従って午前中にこちらに持ってくる郵便物は、単に確認を忘れてて前日配達されていたものを回してきただけ、なんだが。長年務めているにも関わらず、そんなこともご存じない人が使うことば

*3:ふたりとも今の上司に「粛清」されて、既退職

『この夏の星を見る』

この年末年始休みに読もうと買っておいて、楽しみにしていた『この夏の星を見る』、まもなく読了。

奥付を見ると、発刊は去年6月でしたか(時間が経つのが早い!)。

年始休みが終わり、出勤した職場では最近推理小説を読んでいるという上司と読書の話題になったので、今読んでいる本ということで話をしたら、
「やっぱり阿仁さん、『ガッコの先生』だよ」
という反応。
…いや、別に学生・生徒の話を読みたかったからじゃなく。

長引くコロナ禍自粛の中で、これはもうずっと、心の支えや乗り越えるための知恵やヒントを探していた。
11月の自身の誕生日あたりから実は、メンタルの弱り方が結構深刻だった。12月に入ってさすがに少し落ち着いてきて、ようやく本を手に取る余裕も出てきたところ。
「コロナ禍でままならない思いをしたすべての人に贈る感動作!」
というキャッチコピーのこの本に出会った。
物語の中ではあるけど、若者から少しでもそんな力を吸収出来たら、という祈りにも近い気持ちで読み始めた。
それにこれも毎度のことながら、俺に対して「先生」は、全く誉め言葉にならないんですけどっ*1

「人は様々な事情を抱え、それでも平然と生きている。」
ということばは、伊集院静氏だっただろうか。
そこにコロナ禍という不確定要素が入り込んできたことで、もろくも崩れていく「日常」は、この国のすべての人たちが多かれ少なかれ経験させられたことだろう。
音楽活動から離れたら友だちがひとりもいなくなってしまった(ことになっている)俺としては、物語の中で「スターキャッチコンテスト」を巡って主人公たちが一気に繋がっていく前半部分を読んだだけで、目がウルウルしてしまう。
物語後半では、子ども達がそれぞれを互いに思いやる気持ちの、なんと深いことか。
いつもの入浴中の読書ではこんな具合に、各章毎に目頭を熱くしてしまった。
読書習慣なんかないはずの俺が、こんなに厚手の本を夢中になって読み切ってしまう。
なんか読み終えてしまうのが惜しくて、ここへきてちょっと意図的にペースを落としてみたり。

なんとなく「星」繋がりで、入浴中のBGMに「あの花」サントラをチョイスしてみたのだが、これがまた、この作品用に書き下ろされた曲かというぐらいピッタリで、なんだか盛り上がってしまった。

*1:一族「先生」家系の、反逆児