日本に冠たる都知事からの、コロナウイルス戦開始会見を受けて、付和雷同した県知事から「外出禁止令」が出ないうちに、花見を済ますことにした平日休み。
週末は降雪予報が出ており、いずれにしても今日しかあるまい。
毎年この時期になると桜の名所として名前だけは見ていた佐倉城址公園を、初訪問してみた。
途中の車窓から眺める、団地、学校、川、道の分岐点…日本人はいたるところに桜を植えてきた。
近所でも、この時期開花して初めて「あ、これ桜の木だったんだ!」、ということも。
もうこの際、観光名所でも有名地でなくてもいいから、途中下車したい誘惑に何度も駆られる。
これはもちろん現地に着いてから知ったのだが、佐倉城址公園内にはかの正岡子規の句碑があり、(平成27年佐倉市産業振興課設置の)解説看板によると、
明治27年12月(だから季節は真冬だな)、佐倉まで開通した総武鉄道(現JR総武線)に初乗りしてきた子規は、
から城を眺めて、石碑にある句を詠んだのだそうだ。
常磐木(ときわぎ)や冬されまさる城の跡
当時の佐倉城址は、陸軍歩兵第2連隊が駐屯していた軍都で、現在の佐倉城址公園の区画に民間人は立ち入れなかったと思われる。
一方、時代下って無名パンピーである俺はというと、JRではなくかつて仕事の関係で何度か降りたことのある
から佐倉城址公園に入る遠回り散歩。
自動改札機がピンクなのは従来から(ICカード専用機)。
現在、京成佐倉駅は春のお花見キャンペーン真っ最中で、駅名表記も期間限定で「桜」になっている。
街全体が、全力で「桜」推し。
(そういえば今年の「春のパン祭り」ってまだだっけ?)
実は上述の公園に入るコースと公園内での順路は、現地で決めている。
来る前に調べといた情報といえば佐倉市の公式HPで見た出丸と馬出し空濠の桜の写真、それに駅から城址公園までの地図のみ。
何の土地勘も事前知識もないままフラッと訪ねるのが俺の「ざつ旅」スタイルで、その方が現地で見るもの聴くもの新鮮で、自身の旅経験として記憶に長く残るから。
とはいえまずは、駅前の観光案内所でパンフレットを入手。
旅の組み立て方、「ダイジェスト版」といったところ。
かなりがっしりといかつい、恐らく銀行か信金の建物を転用したと思われる観光案内所は俺のイメージと違いすぎて、駅の地図で場所を確認していたのに気づかず、一旦通り過ぎてしまった。
缶ビールその他を入手するため一旦駅へ戻る国道の信号待ちの間、もらったパンフレットに目を通して、さてどこへ向かって歩き出そうかさくっと思案。
駅前の幹線道路を西に、船橋方向へ戻ると、佐倉儀式殿の前にちょっとした桜の並木。パンフレットの「散歩おすすめコース」だと、この儀式殿手前の細い道を左折なのだが、あまりに見事だったので市役所下の交差点まで直進。
この交差点を正面からきて左に切り返す道が、国道296号(成田街道)で、JR佐倉駅方向へ南下している。この坂を登って、佐倉市役所前へ。
日頃の運動不足がたたってこの上り坂、俺にはややキツい。市役所前の道なりさらに奥に進むと、千葉氏累代の供養塔のある海隣寺がある。
右手への切り返し、やや細い下り坂の道が海隣寺の坂。
これを下ると逆Z字型に歩いたことになり、成田街道の旧道のような風情が残る1本裏道を、船橋方向に歩いている。この界隈が、田町。恐らく子規が佐倉城を眺めたという国立歴史民俗博物館(通称・歴博)への正面入口を左に入らず、水濠の外周の道をひたすら出丸目指して歩く。
正面から公園に入らなかったのは、水濠にこぼれる満開の桜で飾られた出丸を下から眺めたい、という俺の勝手な妄想。
この辺りも城下町だったと思うのだが、今は何の変哲もない住宅街に化けていて、アパートなんかもある。
藩士やその御家来衆が詰めていたんではないかとこれも勝手な想像をして、俺も今度引っ越すならこの界隈にしようか、などと思ったりする*2。
その住宅街が不意に途切れて最初に見える水濠の西側出丸には、残念ながら桜の木は植えられていなかった。どーなる俺の花見?!
しかしここからしばらくは、水濠を左手に眺めながらの「川沿い雑木林散歩」な感じが続く。天気と相まって気持ちがいい。
この辺りで後ろから来た軽自動車のオバサンに、「佐倉城址公園へはどうやって行けば?」と道を聞かれて、「(手元のパンフレットを示して)俺も観光客で余所者なんですけど…この左手の山一帯らしいですね」と、我ながら身もふたもない説明。
「お城はないの?」
「天守閣は現存しないそうですよ」
…どうやら江戸城や名古屋城みたいに「天守閣どーん!」みたいなイメージで探していたらしい。
佐倉城は中世に築かれた首都防衛のために武装された城で、江戸を護る東の要衝として重要な拠点と考えられていた。
この時代の城には、我々が天守閣とともにイメージする石垣がなく、現在も広範囲に残る土塁と濠で構成されている。
印旛沼にそそぐ鹿島川とそれに合流する高崎川が天然の外堀を形成している台地の西端、というロケーションもその戦略拠点の性格を表していて、以後20代にわたる歴代城主は、将軍家からの信頼篤い譜代大名*3が務めていたという。
ほどなく南(清水)出丸、古墳の水濠のように出丸の形がはっきり残っている。
水濠を挟んで出丸側がわずかに小高い程度と、俺の妄想していたような見上げる高さのものではない。植えられている桜はちょっと時期が早かったようで、七分咲きくらいか。
そこから先は一直線に、車道沿いに桜並木が続く景色。これはこれで悪くないが、画的にはポイントがない。
というわけで出丸の桜はやや「妄想外れ」(勝手!)だったので、ここから城址公園に入ることにした。とはいえ一番高低差のある公園「裏側」から、公園の中核をなしている本丸跡の広場を目指す羽目になった。
階段が整備されているとはいうものの、これはもはや散歩なんかではなく、城攻略(!)のための「山登り」になっている。途中、木の階段への右足の着地を誤ったようで、軽く挫いた。「夫婦もっこく」は天守閣跡のすぐ脇、本丸跡の西側土塁に、築城時に植えられたものらしい(県指定天然記念物)。
裏手に回ると1本は腐り落ちたようだが、地面から途中で2本に分かれた太い幹が伸びていて、「夫婦」の名がある。
その木に彫られていたのは、兵士の文字で、「砲隊」「昭和十八年十月」などと読める。
先の大戦の影はここにも。
第2歩兵連隊は第二次世界大戦時に第52連隊へと改組され、フィリピン玉砕で壊滅したのだという…。
公園広場とはいえ城跡に、ベンチなんぞ俺の都合に合わせてみつかるわけもなく。
ブルーシートを持参するの、忘れたことを後悔(こういう類のものは、連れがいたりすると忘れないもんではあるんだが)。
凝灰岩のような角(すみ)櫓跡の礎石に腰かけさせてもらい、缶ビールで遅い昼食。寄り道に時間をとりすぎて、もう14時近い。
見渡す広場は部活帰りの学生や家族連れで賑わっていて、今のところコロナどこ吹く風、といった感じ。これでも恐らく、休日よりは人が少ないのだろう。
いい感じで缶ビールの酔いが回ってきて、そんな平和で他人事な景色を小一時間、ぼーっと眺めていた(ようやく花見っぽくなった)。
改めて園内パンフレットを見てみると、旧浅間神社に富士塚の文字。
富士塚といえば、通常は富士山の溶岩をミニチュア状に積み上げたもので、富士山を祀る山岳信仰の拠点・浅間神社にほぼほぼみかけるアイテム。これに登れば富士山に登ったのと同じご利益があるとかないとか。
東京・練馬の江古田駅裏手に住んでいたときは、目の前が浅間神社だったご縁でここの富士塚にも何度も登ったし、富士吉田にある本宮にも行ったことがある俺としては、これは一目見ておかねば、と馬出し空濠へ向かう途中に回り道してみた、が…。
写真のように高さ3mほどの「断面」状のもので、がっかり。
「千葉のがっかり観光資源」…とかでシリーズ化してみようか、これ(笑)。
もっとも、この富士塚のある城の南側崖そのものが巨大な富士塚のようなものだ。「頂上」からの現代的な景色はこれも残念ながら、写真に収めておきたいというほどのものではなかったが(写真の、手すり向こう側)。
城内には他にもいくつかの神社が設けられていたらしく、歴史民族博物館正面の坂は「愛宕坂」と呼ばれ、愛宕神社があったことに由来する。いずれも城跡が陸軍に接収された時に廃止されており現存しないが、愛宕神社は田町地区の氏神様として、谷を挟んだ市役所側の台地に現存しているのを来るときに発見したので、後ほど帰り道に立ち寄ってみた。
途中、二の丸(跡)~三の丸(跡)の広場へと城を下り、それぞれの場所の桜を愛でる。
公園案内にはソメイヨシノだけでなく「50品種、1,100本」とあるので、開花時期はかなり幅があるらしく、国内で他の桜の名所にみられる一斉開花のような派手さには欠けるものの、一定の期間開花を楽しめるようだ。その色づきも古木らしくやや落ち着いた薄紅だが、よく見るとかなりバラエティがある。佐倉城址公園センター(管理事務所)にあるという「100名城スタンプ」の文字にフックしちゃったので、先に立ち寄る。
ここには公園ボランティアの方々による、佐倉城に関する熱心な歴史研究の成果が展示されていた。
手狭で手作り感満載ながら、俺にとっては興味深い内容のものばかりで、思わず様々な想像力を掻き立てられながら夢中で読みふけってしまった*4。
城内の立体模型と、天守閣のみ1/20の模型も併設されている。現地でこういう「出会い」があるから、中途半端に知ってるかのような観光情報を追体験するような旅じゃあ、飽き足らないんだよな。
お陰で俺の中で混同していた京成本線の次駅・大佐倉にある「本佐倉城」との関係性も把握できたし。
スタンプは馬出し空濠のイラストらしい。
恥ずかしながらここまで来てようやく、あの幕末の名君・堀田正睦(まさよし)だったかぁ! ってなった(19代城主)。しかし、この建物の前に広がる自由広場駐車場の砂ぼこりは、自家用車が出入りする度に、「パリ・ダカールラリーかよ!」というくらいに視界一面黄色くなって酷かった。道の向かい側がくらしの植物苑で桜並木になっているのだが、ここの桜は埃まみれでなんだか可哀そうな感じ。水たまりにならない程度なら少し水を撒くか、いっそ砂利か舗装にして欲しい。
…こりゃ帰宅早々に風呂に入らないとだな。椎木曲輪と呼ばれる侍屋敷があった区画が今の歴史民俗博物館のある広大な平地で、三の丸と曲輪を隔てる椎木門(跡)を出るとすぐにあったのが、巨大な馬出し空濠。
濠の中に人馬を隠しておき、侵入してきた敵兵に奇襲をかける。これも陸軍の進駐で一旦埋められてしまったらしいが、今は深さ3mで復元されている。これでも人馬が登ってくるにはかなり深く見えるが、元々は5.6mもあったものだそうだ。な~る~ほ~ど~。
歴博の横庭に位置していて、周辺はキレイに整備されすぎてるくらいなんだが。
観光パンフレット掲載のプロの写真が揃って遠景だったのは、これしか画になる角度がない、ということだったか。
加えて芝生広場が丁度養生作業中、オレンジ色のネットに囲まれてしまっており、これはこれで目障りだ。
そして柵に囲まれて近寄れないのは恐らく一番の古木だろう、柵内の芝生には夜間照明灯が設置されていた。ここへきて国立歴史民俗博物館(通称「歴博」)も、その付帯設備であるレストラン・売店ももちろん、コロナ騒動で休館中。
公園内では他に三逕亭(お茶室)、くらしの植物苑も休館中だ。
そういえば駅貼りの広告もイベントものを中心に掲載されなくなって久しく、空き掲示板が目立つようになり、いよいよ景気に深刻な影響が出始めている予感がする。
しかし桜は今年も、春が来ればこうして変わらず、華やかに誇らしく咲いている。
恐らくは先の大戦中も、終戦直後の春も変わらず…。
単純で愚直なまでのその、ひたむきさ、逞しさ。
今日の花見の裏テーマでもあった、会社のHPトップイメージ用の、桜のカットもどうやら撮れ高OK。
そろそろ帰途につくことにしよう。
気が向いたらそのうちこそっとトップイメージの画像を差し替えるつもり(職権の濫用)。