青梅鉄道公園。

8月は、かの大戦に関する情報が多く飛び交う季節だが、その中で毎年気になっており、一度は訪ねておきたいと思っているのが、
中央線「湯ノ花トンネル」

第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8月5日正午過ぎに東京都南多摩郡浅川町(現・八王子市裏高尾町)内の運輸省鉄道総局(国鉄。現・東日本旅客鉄道JR東日本中央本線、湯の花トンネルでアメリカ軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、多数の死傷者が発生した事件である。列車襲撃事件としては国内最大規模であり、死者50名以上、負傷者百三十名以上を数えた。
「湯の花トンネル列車銃撃事件」(ウィキペディアより)

トンネル脇には慰霊碑が建てられているそうだが、このとき銃撃を受けた電気機関車が「ED167」だったことは、恥ずかしながらつい最近になって知った。
「ED16」型電気機関車昭和6年から18両が製造された初の国産電気機関車で、小柄ながらも馬力を買われて勾配線区を中心に渡り歩いたあと、晩年は青梅―南武線に集結、奥多摩で採掘される石灰岩を川崎の港へ運ぶ貨物列車に充当されていた。
私の中学・高校時代まで「現役」だったのは奇跡のようなもので、父のおさがりのフィルムカメラを携えては毎月のように夢中で撮影に通っていた思い出がある(もちろん7号機とも、何度か遭遇している)。
昭和55年には全機引退、その後しばらくして、青梅―南武線での石灰岩輸送自体がトラックに切り替えられて消滅し、西国立にあって当時電気機関車たちのネグラだった立川機関区もマンションになってしまった。
そんな激しい変化を目の当たりにするのが嫌でなんとなく青梅線からも足が遠のいてしまい、現在に至る。
しかしED16型はその1号機だけが、青梅鉄道公園に保存された。国の重要文化財に指定されたのも知っていた。
保存車両を訪ねることは、その「死」を受け入れること。
いつかわだかまりなく見に行ける日はあるのだろうか、と思っていたところ「7号機」の件を知り、そして今月になって、1号機が保存されている青梅鉄道公園がリニューアルのため今月末で休園になることを知った。
どうやら来訪のチャンスは今しかないようだ。
「7号機」が保存されなかったことは今となっては本当に「痛恨」だが、その7号機が紡いでくれた縁、ということなんだろうか。

「安心してください、穿いてますよ。」

国鉄に買収されるまでは「青梅鉄道」の本社ビルが、今もそのまま青梅駅舎として使われている。
駅からは青梅線を細い陸橋で超えて徒歩15分、最終行程では以前はなかった「桜見本園」の中を突っ切る。ちょっとした山道(しかもなぜか木陰なし)に、実に久しぶりに汗だらけになりながら、階段を登り切ったところ、車道を挟んで「再会」を受け入れる気持ちの準備のないまま唐突に目に飛び込んでくる、古色蒼然とした車両たち。

青梅鉄道公園に到着した。

デゴイチがお出迎え。

D51452(D51形式テンダ蒸気機関車
この形式はD50形式(大正12年から製作)に代わる主要幹線貨物列車用として、昭和11年から製作されました。終戦までに、同一形式としては最多数の1,100両以上が製作されて全国に配置され、デゴイチD51)の愛称で親しまれています。
とくに戦後の貨物輸送を通じて日本の経済復興に大きな役割を果たしました。
この機関車は昭和15年汽車会社で製作され、昭和40年まで東北本線 郡山―盛岡間で、その後昭和47年まで関西本線 亀山―天王寺間で活躍し、32年間に213万km(地球を60周)を走破して、この地に引退したものです。
(諸元表割愛)

予想通り平日ということで空いていたが、それなりに賑わいが感じられたのは、やはり「休館」のニュースが伝わっていたからだろう。
子どもの頃は何度か連れてきてもらった記憶があるが、入園料を取るようになってから来たの、実は始めてな気がする。
受付窓口ではさっそく、「TICKET TO 2025 いったんさよならWEEK」の一環で、スマホでアンケートに答えるともらえるオリジナルパッチンバンド(イラストはED161)の残数について問い合わせている場面に出くわした(当方ガラケーにつき)。

公式発表によれば、『中央線・青梅線の鉄道の歴史を伝える学びの場』をコンセプトにリニューアル(公式) されるそうだ。
以前神田にあった交通博物館は図書室も併設していて、アカデミックなイメージが強かった。「専門相談員」を置いていて、子どもたちがいつでも気になったことを質問することができた。
統合される形で大宮に「テッパク」がオープンし、どちらかというと新幹線や特急列車といった、当時最新鋭技術を集めて造られた花形車両が集められているようだが(行ったことないけど)、差別化する意味でも、そういった花型車両に昇華する前の段階でそれらを支えてきた技術、実用化されるまでの取り組みや、これまでとかく身近すぎて文化財としては顧みられることの少なかった、通勤電車を中心とした展示になればいいな、と個人的には思っている。
その中でクモハ40を残せたのは奇跡的*1で、現代通勤電車のルーツと思われる73系でさえ、今や実車は1台も現存していないようで…。

クモハ40054号(クモハ40形式電動車)
国鉄が東京/大阪地区の通勤輸送用として、1932年(昭和7)から製造をはじめた電車です。1両あたりの定員を増やすため、車両の長さを従来の通勤電車より約3m延ばして20メートルにしています。また、運転席が車両の前と後ろに1つずつあるのが特長です。
クモハ40054号は1935年(昭和10)に田中車輛工場(今の近畿車両)で「モハ40134」号として新製され、当初は総武線で使われました。山手線を経て戦後は中央線を中心に走り、1962年(昭和37)に日光線へ転じました。昭和20年代半ばに青梅線へ配属されたこともあり、青梅~氷川(現・奥多摩)間を1両編成で往復しました。なお、青梅線ではその後もクモハ40形電車が活躍をしていましたが、1978年(昭和53)3月を最後に全車引退しています。
(諸元表割愛)

園内を見回すと、今や展示車両数と同じくらいに子ども向け遊具が随分増えていた。
恐らくはバブル景気の頃なんだろうか、来場者誘致に躍起になっていた時期もあったんじゃないかと想像されて、ちょっと切ない。
新幹線広場に敷かれたミニチュア機関車の軌道は、老朽化と部品確保が困難とのことから、一足先に「鉄道が朽ちていくサマ」を観察する展示になってしまっている。

子どもの頃、なぜか好きだった、E10形。

E102(E10形式タンク蒸気機関車
急勾配線用として製作されたもので、わが国最大のタンク機関車です。当初はトンネル区間を運転するために煙突を後ろむきに運転する構造となっていました。又曲線通過に無理のないよう第3・4動輪タイヤにはフランジがありません。
この機関車は昭和22年(1947年)汽車会社において製作されたもので、最初奥羽線庭坂―米沢間に、その後は肥薩線人吉―吉松間や北陸線金沢―石動間の勾配線に使われ、昭和32年から北陸線米原―田村間を運転していたものです。
(諸元表割愛)

建物内の展示品はあくまでも「記念館」の位置づけなんだろう。
全体的に文字情報が少ないために、ともするとなんだか個人の趣味によるコレクションを見せられているような気がしてしまう。
今どきの博物館としてはちょっと手ごたえが足りないかも(逆にそこが肩肘張らないハードルの低さや素朴な感じになっていて、誰でもが入りやすい場の空気感になっている気もするので、バランスが難しいが)。
とりあえず展示されているものの解説表示については、何度も訂正されたり修正されたものでなく、見た目も整えてもらえれば。「見せ方」って結構大事だと思う(情報の信憑性に対する印象が変わる)。
実物車両の維持管理に係る費用がどうしても莫大になってしまうので難しいだろうが、常駐じゃないにしてもやはりちゃんとした専門家(学芸員)を置いてもらい、末永く情報発信していってもらいたい。

これだけっ?(左手前のガラスケース内に、歴代案内パンフレットが展示されてはいたが)

その際にはなぜ、都心を離れたこの地に鉄道公園が作られたのか、その当時の設立への思いなんかも、わかりやすい説明があるといい。それらを理解してくださる人が多いほど、今後も何かの時にきっと支えになってくれるだろう。
展示模型の中には、新幹線開発記録のフィルムで見た気がする、とても貴重な模型(恐らく現物じゃないかと)もあったようで、(入手経路を具体的に明かすのは無理だとしても)展示品そのものがもつ文化財的な意味についても、もっと丁寧な解説があってもよかった気がする。
調べ直しているうちに、思いがけず超貴重な文化遺産が見つかったりしないかな。

銘板には「昭和29年12月8日/御要求元:鉄道技術研究所車両運動研究室/東京・西大崎 有限会社向出製作所」とある。
キュウロクと、懐かしの腕木信号機。

9708号(9600形式テンダ蒸気機関車
この形式は大正時代の代表的な貨物機関車で充分な火床面積を得るため動輪上に火室を置いたのが特長で、このためボイラ中心線は非常に高いが引張力は強大で、大正12年(1923年)D50形式が出現するまで貨物列車用や勾配線用の標準形として毎年製造され、その両数は784両にもなりました。テレビ映像「旅路」に登場したのもこの形式です。
この機関車は大正2年(1913年)川崎造船所兵庫工場で製作され、昭和37年7月まで関西方面で使用されていました。
(諸元表割愛)


エアコンの効いた記念館とを時折出入りする休憩を挟みつつ、屋外展示の実物車両へ(実はこの暑さで、何度も意識がトびかけた)。
先ほども蒸気機関車のロッドに、熱心に巻き尺をあててた若者を目にした。「模型テツ」さんだろうか(^o^;

"ハチロク"、最近では「鬼滅の刃」にも描かれて話題になったらしいですね。

8620号(8620形テンダ蒸気機関車
この形式は明治末期に輸入された各種の機関車の長所を取り入れ、日本で設計製造された非常に優秀な性能をもった機関車です。全部で670両もつくられ、各地の幹線旅客列車用として使われた大正時代の国鉄を代表する機関車です。
この機関車は大正3年(1914年)汽車会社によってつくられ、九州で活躍後、昭和10年四国に移され、昭和33年9月廃車となったもので多度津工場(香川県)に保存されていました。
(諸元表割愛)

何かとぼっちな私にとっては、撮りテツに来て、実物の撮影で罵声飛び交わない環境って、それだけでもう尊くないか?
互いにお邪魔にならない距離感で、思い思いに過ごせる平日休みの鉄道公園。
しかし改めて見回すと、展示されている実車は(新幹線を除くと)黒だの茶色だの、地味は地味なんだよな(そこがいい!)。
重厚で、いかにも「博物館」って感じではあるが。

新幹線
鉄道公園の新幹線は、東海道で活躍をしていましたが、長い仕事を終え昭和60年3月に浜松工場より運搬され、当公園に設置されました。
開業当初は、東海道新幹線だけでしたが、現在では山陽・東北・上越・山形・秋田・長野・九州・各新幹線が開業し、日本の主要都市を高速で、しかも正確、安全に運転され、私達の生活に欠かせない交通機関です。
公園に展示されている新幹線の車両は、東海道新幹線を走っていた22形式です。
(諸元表割愛)

C111号(C11形式タンク蒸気機関車
この形式は都市近郊で近距離旅客列車用として製作された、昭和初期の代表的タンク機関車です。
この機関車はその第1号機として昭和7年6月(1932年)汽車会社で製作され昭和37年まで関西方面で活躍していました。
(諸元表割愛)

ピーコックと、百日紅の花と。

5540号(5500形式テンダ蒸気機関車
この形式は明治時代の後半より大正初期にかけて旅客列車用として愛用された機関車です。当時60両もありました。
この機関車は明治30年(1897年)英国のベイヤーピーコック社で製作され第一線で活躍した後は入換機として使用されたのち札幌工事局で、昭和36年まで工事用として活用していました。
(諸元表割愛)

…「好きなおかず」は最後まで取っとく性格です私(どーでもいい情報)。

スペシャルウィークということで、こんなヘッドマークでおめかし、してました。

ED161号電気機関車
ED16形式は昭和6年に開発され、18両製作されました。現役の電気機関車としては国鉄最古の形式で、当初は中央線 八王子―甲府間、上越線 水上―石打間などで活躍しましたが、昭和40年以降全機が立川機関区に集結し、南部瀬・青梅線を主体に貨物輸送の主力となって、半世紀の永きにわたり活躍しました。
このED161号は昭和55年9月末まで使用されましたが、10月の時刻改正により現役を退き、平成30年10月31日、国の重要文化財に指定されました。
(諸元表割愛)

これらの一角にED16が、茶色を纏った姿で据えられていると、その現役時代を知っている人たちって今日の来園者層を見回してもさすがに少ない感じで、複雑。
やっぱり「博物館の展示品」って感じに受け取られちゃうのかな。
実際に青梅線を走ってたんだぜ、つい最近(?)まで。
それぞれの車両に、私と同じような思いを重ねている人たちがいるんだろうなきっと。
古い車両から順に現役時代を知る人たちが減っていって、やがて忘れ去られてしまうのかも知れないけど、若い人たちにもそういう思いをこれからも共有してもらえる(想像できる)、静かな思いが集まるような場になってほしい。
これからますます、バーチャルな情報ばかりが溢れ出てくると思われるので、鉄道車両に実際に触れて、体感できる展示方法がちゃんと残っていくといいなぁ。
しかし「2221」号蒸気機関車の傷み方を目にすると、上屋の有無だけでこんなにも車両の傷み方が違うんだなと思った。

2221号(2120形式タンク蒸気機関車
この形式は明治時代のタンク機関車としての強力機関車で日露戦争(1904~5年)当時、急にアメリカやイギリス、ドイツなどに注文し一部は満州でも使われました。当初はB6形と呼ばれ両数が多かったので(最も多いとき268両)貨物列車用や勾配線用として至るところで活躍し、戦後もしばらくの間入換用として使用されていました。
この機関車は明治38年8月(1905年)英国のノースブリティッシュ社で製作され昭和30年3月まで使用されました。
(諸元表割愛)

実物車両の屋外展示、以上の10両(引用箇所は、現地案内看板からの転記)。

デジカメ片手に、夢中になって展示車両の間を歩き回っていたがようやく自己充足して、ED16の側面に設けられたベンチでデジカメを手放して、無心になって眺める。
もしもこの機械に意思があったとしたら「ED16」のジィサン、奥多摩の山を降りてここに連れてこられた今の状況をどう思ってるんだろ。
あの、何度もカメラ片手に行き違ってた日から、ようやくこうして会いに来れたよ俺。
連結器をぐっと拳で押し返したら、なんだか目頭が熱く…随分遠くへ来ちゃったよな俺たち。
舶来電機を模した国産電気機関車は、設けられた上屋の下で、今出来の機関車たちと比べてもなんだか穏やかな顔つきをしてるように見えて仕方がない。

同じように青梅線の一時代を支えてきたクモハ40にもお別れを告げて、16時丁度、後ろ髪引かれる思いでまだ人で賑わっている青梅鉄道公園を後にした。

火を落としたカマをこうして昼日中に見てる分には…現役時代は燃え盛る火の中に手作業で石炭くべてたわけで、まさに「戦場」。

何にしろ今日は、無理して遠方から来てよかったな、という気持ちになれた。
実は元々、保存車両を見に行くという行為自体が、あまり好きではなかったのだが。
走り出さないまでも、展示された車両からはどんなに待っても、ブロワーもコンプレッサーの音もしてこない、なんだか抜け殻見せられてるみたいで悲しい気分になっちゃうもんだから。
現役時代は同じ「ぶどう色1号」(茶色)でも、劣化度合の違いから、車両によっていろんな色があったもんだ。
来園者のいたずらを恐れて、手の届かない距離に置かれている「実物」展示は、「実験室」に連れてこられたような気分になるし。
でも屋外展示の車両たちは現役のときと同じように刻々と変わる日の光の中にいて、ずっと見てるだけでも飽きることはなかった。
まぁこの時期、雨さえ降らなきゃ大概オッケー、ということで。
これでまた、感染拡大で週末に外出・遠出できなくなっても、今日の思い出があればしばらくは大丈夫。

おまけ。拝島駅でみつけたモックアップ(秀逸!)。

*1:1両で運転できることが幸いして、最晩年は電気機関車の様な使われ方(事業用車扱い)をしていた