西武多摩湖線の、思い出。

以前、何かの雑談ついでに、自身が千葉県民になってしまったことから都民の友人をやっかんで、「都心の地下鉄と、この辺りの西武線を乗りこなしてこそ、一人前の『東京人』なのだ」(笑)などと自説を吹聴したもんだが…実際かな~り複雑なこの辺り。
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中央線の国分寺駅ホームに並んで出入りしている西武国分寺線はよく目につくからか、利用しなくてもその存在を知ってる人が多く、国分寺西武線が乗り入れているというとまず想像されるのはこちらだ。
今、西武新宿線系統になっている部分は旧西武鉄道*1が起源の路線で、最初に開業したのはこの国分寺から北上、本川越までを結ぶ路線。後に、自社線をより長距離利用してもらうことを目的として東村山から東へ分岐し、大繁華街・新宿に向かって中央線の北側をほぼ平行するように伸ばされた今の西武新宿線が、すっかり「本線」となった。この時点で東村山―国分寺間はローカル線に陥落、今も単線のまま運行されている。

一方、同じ国分寺から出ているもう1本の西武鉄道多摩湖線は、利用者の多いJR中央線のホーム上から見えないのでマイナーな存在。
ホームが北口の台地上にあって、ホーム延伸を目的とした駅前再開発によって今の位置に移った際には1面1線ながら立派な上屋に囲まれてしまったので、中央線・国分寺線のホームからはさらに見えなくなってしまった。
俺の高校通学時代には、現存する駅に接する踏切から、少しでもホーム長を取るために急カーブで「逃げる」形で、そのカーブ上に田舎然として設けられた短いホームがあった。
重い鋼鉄製の電車が細いレールを軋ませながらソロソロと入線してくると、中央線の掘割状になっている駅を見下ろす形で、停車中は崖上に先頭車の「顔」だけが見えていた。
ホーム終端側と逆(多摩湖寄り)にはすぐ、もうひとつ踏切(現在は廃止)があって、周辺を大規模再開発しない限りこれ以上ホームを延ばすことができなかったことが幸いして、全長20mが標準の新型車に置き換えることができずに、からくも生き残った全長17m3両編成に組まれた3本の電車たちは、昭和29年製。
今だから白状するが、この「351型」に毎日乗って通学したくて、この高校を選んだ俺だったのだ。
入試前、初めて高校見学にいった日には、偶然にもこの3両編成のうちの1本が検査日だったらしく、いつもは西武園線を走っている2両編成が代走に駆けつけていた。これが同じ351型と「西武版クハ55」といわれた1411型の2両編成*2で、「片隅運転席」との仕切りはステンレスバーのみ、という開放的な前面展望の古い電車の作りに、俺はすっかりヤラレちゃったのだ。
多摩湖線で1411型に乗れたのは残念ながらこれ1度きりだったが、351型の方は西武鉄道の通勤電車の先駆けとして、1両が横瀬の車庫に保存された*3

運行はほぼ一日中、萩山―国分寺間で1時間に3本。
多摩湖線なのに、多摩湖(現・西武遊園地駅)まで直通する便は、当時はなかった。
駅は両終端を合わせても4つしかなく、両側の駅からほぼ同じ時刻に発車した2本が、これもほぼ真ん中の一ツ橋学園駅で上下線交換する、一番単純な形の単線運行。
お陰で本数は少ないものの各駅での発車時刻は覚えやすかった。

朝のラッシュ時はこれにもう1本加えた3本フル運行になる。
そのカラクリは、国分寺と一橋学園の間に「本町信号所」が設けられており、ここでも上下の電車が交換離合する。なんと3本目の電車は国分寺を出てひと駅行っただけの一橋学園駅折り返し便として運行されていた。
当時の西武線は、冷房(改造)車が順次黄色に塗り替えられていて、赤の濃淡(ラズベリーレッドとトニーベージュ)色だったクーラー未装備の旧型車のことを沿線利用者は、特に夏場はガッカリ感も込めて「赤電」と呼んでいた。
さすがに夏場だけは冷房付きの新型車が入るようになったが、全長20mの大型車だと2両編成までしか前述の通り国分寺駅ホームに停められないため、専らこの「学園折り返し」運行に入ってしまい、朝のラッシュが終わるとさっさと新所沢にある車庫に引き揚げてしまうことが多かった。

国分寺線は先述の通り旧・西武鉄道がルーツだが、多摩湖線多摩湖鉄道と、前歴が異なった時代の名残だったのか、今は同じ西武鉄道でも、同じ跨線橋で中央線と行き来できた国分寺線に対して、多摩湖線は同じ跨線橋を上がった崖上の位置に中間改札口が設けられていて、中央線とは別の小振りな木造駅舎がこの改札口を覆って建っていた。周囲に建物ができてしまっていたが、開業時は恐らく、北口ロータリー(とは名ばかりの狭い広場)側からも直接出入りできる構造になっていたと思われる。
数少ない電車が到着するたびにステンレスパイプのラッチに駅員さんが出てきて、キップに鋏を入れてくれていて、当時からこの一画だけが、国分寺らしからぬのどかな光景。もっとも、全国的にも自動改札機が登場するのは、かなり後になってからの話。

朝の国分寺駅で中央線を降りると、西武国分寺線の上り電車が到着するタイミングと重なってしまい、吐き出されてくる大量の乗り換え客の流れに抗いきれず、いつもの電車に乗り損なってしまうことも結構あった。この「生死を分ける」のは、わずか10秒の差なので、中央線の乗車位置はどんなに混雑していても毎朝、乗り換え階段のすぐ前と決めていた。
多摩湖線朝の次発はあの「学園止まり」。さらに1本後の萩山行きだと、もれなく遅刻確定だ。
遅刻しないためには止むを得ずこの「学園止まり」にひとまず乗って、一橋学園駅からひと駅分走る! …のはもれなくウチのガッコの生徒たちで、振り向くと結構な人数になってた日も…(笑)。

実はこの多摩湖線、(線路戸籍上の)運行距離こそ国分寺から多摩湖まででもそんなに長くはないが、箱根土地*4創業者・堤康次郎氏が最初に鉄道事業に参入、開通させた多摩湖鉄道がその前身。以後ここを足がかりに周辺私鉄を買収、「大西武」の一時代を築くことになるという、いわば堤財閥「発祥の地」であり、国分寺駅の木造駅舎脇には、小さな池のある庭とともにこのことを記した石碑も見たように記憶している。
多摩湖線ホームの延伸と駅前再開発で、木造駅舎とともに、移設されることなくいつの間にか消えてしまったようだ。

多摩湖線」戸籍上の終点・多摩湖へは当時、本線格である新宿線に接する小平駅から折り返してくる4両編成に、萩山で乗り換え。
休日の観光シーズンには、このうちの数本が小平からではなく西武新宿からの直通臨時急行になっていた。
余談だが、拝島線多摩湖線が分岐する萩山駅では平日の朝夕ラッシュ時、新宿からここまで併結されてきた拝島行きと多摩湖行きを切り離し、単線ゆえ上り電車も同じタイミングでホームに進入してきて併結作業が行なわれていた。乗降客のさほど多いとはいえない萩山駅が、このときばかりは(テツ的には)とても賑わっていた。
小平駅配布のポケット時刻表は、地元高校生の必須アイテム。
この分割列車は発時刻の上に、「拝・多」と行き先の略称が記されていて、一部の生徒間では、多摩湖駅の駅名が西武遊園地に変わっても、この種の電車を「ハイタマ」と呼んでいたりした。
いつ頃からか、何かと停車時間の必要なこの分離・併合作業も「合理化」されて、高校を卒業する頃には見られなくなっていた。
最近はさらに大幅な見直しがあったらしく、一見すると路線名に則った運行方法に戻ったようだ。どうやら新宿(方面)一極からの利用客誘致、という発想自体をやめたのではないかと思われる。



そういうわけで今回、久し振りに訪ねてみると、変わりようがないと思われたこのローカル支線でも、運行系統が随分変わっていた。
国分寺駅で時刻表をざっと眺めてみたところ、まず悪評高かった(?)「学園止まり」はさすがになくなっていた。
従来からの萩山折り返しに、西武遊園地多摩湖)まで足を延ばす電車が1本おきで運行されている。
萩山駅で交換できるようになったためで、車窓からは本町信号所がなくなっており、待避線側は線路も剥がされ、路盤の砂利だけが残っているのが見えた。
当時地元に住んでいた友人に聞いた「都市伝説」によると、本町信号所での交換がない終電の351型は、国分寺駅を出ると老体に鞭打ってこの長いストレートを時速100kmほどでかっ飛ばしていた、んだそうだ。何かと遅れがちな他線からの接続を待って、遅れを取り戻そうと本当に飛ばしていたのか、あるいは古い電車は車体が重厚でモーター音も爆音だったから、スピード感覚としては80km/hも出ていれば、体感100km/hの迫力、ということだったのか…。

今は全車クーラー装備、本線からは引退したものの(多摩川線と共通運用の)ワンマン仕様に改造されて白く塗られた電車が4両編成で運行されている。すっかり地元に定着したものか、いつの間にか外観の「ワンマン」の表示は撤去されていた。このうち1編成だけがなぜか、2両編成の同型車2本を改造したものになっていて、こちらはひときわパワフルなオール電動車、というマニア的な「お楽しみ」もある。今日はこの1編成が、従来からの黄色を纏って運行されていた。

一橋学園駅国分寺行き電車と交換した後は、萩山駅までに2つしかない途中駅のもうひとつ、青梅街道駅で下車。ここが母校への最寄駅だった。
いつ無人駅になってもおかしくない、単線に片側ホーム1本の駅改札口を出ると、当時は向かい側にパン屋があって、まだ明るい夏の学校帰りには、20分に1本の電車に目の前で行かれてしまったときなど、アイスを買って店前のベンチで食べながら次の電車を待っていた。歩き詰めで汗だくの身体が、腹からじんわりと冷やされていくのが気持ちよかったものだ。

ホーム向かいには今も、交換駅にもできるほどの空き地があり、色とりどりの花が咲いていたので、これらをモチーフに電車をカメラに収めていたら、当初の目的を見失いあっという間に時間が経つ。
未練は残るが、さすがにそろそろ歩を母校へ進めよう。





 

*1:創業者の堤は合併時、会社名は残したが、実質は今の池袋線系統の前身、武蔵野鉄道への吸収合併だったという

*2:こちらは全長20mという寄せ集め編成

*3:通常は非公開

*4:のちのコクド、現在のプリンスホテル